ぼんやりと空を見ているとどこまでも飛んでいける気がした。
テントの近く、積み上げた薪のすぐそばで座り込みながら、ジュノンはぼんやりとそう思った。空は青く、大きい。だから、自分でも飛べるんじゃないかと。
そしてその気持ちは今はじめて抱いたものではなかった。ずっと昔から、それこそ物心ついた時から、一人空を見上げてはそんなことを考えていた。
一人きりには大きすぎる空。
一人きりには青すぎる空。
だから、飛んで行ってしまえる。どうしてそう思うのかはわからない。ただ、なんとなく、それが真実のような気がしていた。多分、今でも。
「暇だなあ……」
出て行ってしまったライフガントルたち四人。シャーレとロニテスは魔物を狩ることができただろうか、ライフガントルとシューは食用草を一杯見つけてきてくれるだろうか。
浮かんでは消えるとりとめのない思考の中で、唯一大きく存在感を放ち、加えて絶対に消えないもの。それが、“空を飛んでいける”という確信めいた思考だった。そうして大抵、そんなことを考えているといつも昔の記憶を思い出す。
(まだ、僕の屋敷にミドラが来る前のこと……)
今にして思えば、どうやって自分が生き延びてきたのかわからない。思い出せるのは緑の中に存在する調度品で溢れた大きく暗い屋敷、「これを食べて、いずれ誰かがここを見つけるまで生き延びていて」という、誰とも知らない声。
今でこそあの屋敷(といってもジュノンは自身の寝室と勝手に決めた部屋と地下の倉庫、おそらく使用人が使う場所らしい裏手の狭いダイニングキッチンしか使わないが)が居心地の良い“居場所”のように思えるけれども、屋敷に連れてこられた当初はひとりっきりで明かりをともすこともできず、ただひたすら闇と孤独と飢えに耐える日々だった。
(くらい……くらい、ところで)
感じるのはいつも同じもの。
激しい胸の痛み
割れるような頭痛
耳に残る何かの甲高い悲鳴
どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか、ジュノンは考えたこともなければ理由を知ろうとも思っていなかった。ただそれらの痛み、苦痛でさえ自分が今ここに「生きている」証のようで、どこか嬉しく思う時さえあった。
「……そう言えば」
そんなことをつらつらと考えていると、ふと柔らかな風が吹いてジュノンの髪を巻きあげた。遠くのほうにロニテスとシャーレが見える。彼らの手には何やら黒い物体が握られていて、魔物を捕らえられたのだとわかった。彼らはこちらが見えていないのだろうか、ジュノンが見ていることにも気付かず、次の得物を見つけたらしい。動き出した影を見ながら、ジュノンはふと思う。
(最近、また酷くなったな)
闇に入ると常に感じるあの痛みや苦しみは、ミドラと会い、彼の世話を受けるようになってから、次第に消えていった。村人からは煙たがられる存在だったから、ミドラ以外の村人たちの中に入ってしまえば孤独に違いなかったが、ミドラがいる、というただその一点だけで、ジュノンは孤独を克服できた。
しかしいつからだろうか、旅を始めてからなのは間違いない。ジュノンは悪夢を見るようになっていた。そうして、夜中うなされて目を覚ますと、大抵昔とおなじ“痛み”がジュノンを襲ってくる。
(……いつから、だろう)
“こう”なったのには理由があるはずだと、ジュノン自身よくわかっていた。“痛み”自体が精神的なものからくるものなのかわからなかったが、旅を始めてから、自分の中の何かが確実に“変化”している。それが怖かった。
(僕が知らぬ間に、僕が僕でなくなって行ってしまうのが怖い)
自分が自分じゃなくなったら。
そうしたら、多分、考えられないほどの孤独が待ち受けているに違いない。今の「自分」でようやくつかんだ居場所は、「自分」という存在があってこそのものだ。それが違うものになってしまうとなると、居場所自体も失うことと同じである。また、闇の中孤独と闘うのは嫌だった。
あの場所に戻りたくなかった。
「……シャーレ」
ふと、気づく。
「シャーレと、会ってからだ……」
レイニータウンにいた時は体を酷使していたから、悪夢を見る隙も与えず深い眠りについていた。だから見なかっただけなのかもしれない。レイニータウンを出てから、シャーレと寝食を共にし出してから、自分は、悪夢を見るようになったんじゃないのか?
「原因は、シャーレ……?」
改めて彼女と自分の関わりを思い返してみる。彼女と初めて会ったのは、ダキリア付近の森でのことだ。あの時は彼女の名前すら知らなかったが、彼女と出会う寸前、確か、不思議な感覚にとらわれなかったか?
そうだ、何かが自分をもぎ取っていく感覚。
奪われる感覚。
失う痛み。もう嫌だ、嫌だと叫んでも、誰も、何も助けてくれない、絶望。
喪失感。
はっとした。
そうだ、あれからだ、思って、ゆっくりと自分の両掌を見た。
(シャーレに……近づくと、手が震える……)
単にそれは、ロニテスのことがあるからだと思っていた。自分がどことなくシャーレに“怯えている”のは、ロニテスが彼女を追い求めていると知っているから、気まずく感じてだと思っていた。――しかし、それは、おかしくないか?
シャーレと話すと楽しい。彼女は博学で、屋敷の地下書庫で大量の本を読み漁ったジュノンよりもはるかに多くのことを知っている。加えて、彼女は実力だって申し分なかった。いや、彼女一人いれば本当はジュノンもロニテスも必要ないかもしれない。大天魔くらい、彼女一人で何とかできそうな気さえした。ジュノンは彼女を尊敬していたし、彼女もどことなくジュノンを気にかけているような……そんな風にジュノンは解釈していた。
なぜなら、ジュノンが視線を感じてふと顔を上げると、そこにはいつもまっすぐな瞳でこちらを見るシャーレがいたからだ。彼女はジュノンにあえて視線を気付かせるような態度で、堂々とこちらを見続ける。何を見ているのだろうと初めは気にしていたのだが、彼女が自分の一挙一動を見ているのだと理解してから、弟のように思われているのかな、なんて自己解釈をしている。
だから誓って言えた。自分は、シャーレに気まずく思ったことなど無いと。
大体にして、ロニテスのことがあるからなんだというのだ。ジュノンにロニテスのことなど関係ないし、たとえば本当にシャーレがロニテスの追い求める少女だとして、彼がそのことを彼女に打ち明け、二人の間でどうなろうと、なるようにしかならない。それぞれの関係なんてその時々で変わるものだし、自分は今までそうやって様々なことをあきらめ、割り切って生きてきたはずだ。
(なのに、なぜ)
ロニテスに気を使って、シャーレといると気まずいだなんて思っていたのだろう。震えの原因が、痛みの原因が、悪夢の原因が、シャーレではないかという考えに行きつけなかったのだろう。
いいや、ちがう。“行きつけなかった”のではなく、おそらく自分は無意識のうちに意図的に“行きつかなかった”のだ。
だって自分は彼女を尊敬しているから。
孤独の再来かと思う程の苦痛が、彼女と共にいることで引き起こされているなんて可能性を、考えたくなかったのだ。けれどしかし、ジュノンは気づいてしまった。認識してしまった。認めてしまった。
(僕と……)
掌は彼女が近づいてきているからか、少しずつぴくぴくと震えはじめた。まるでジュノンの意思とは別の意思が働いているかのような震え方に、思わずぎょっとする。こんなに大きく反応しているのは初めてだったが、しかし考えるべきことがありすぎて、ジュノンは深く気にしなかった。
(僕と、シャーレに、いったい何があるっていうんだ……)
答えは当の本人が現れても、出ることはなかった。
ロニテスとシャーレは、小さなウサギ型の魔物を三匹、中くらいのキツネ型の魔物を二匹の、計五匹を狩ってきた。それまで全員が三口ずつ食べれば終わってしまうくらいしか捕れなかったことを考えると、かなりの大健闘である。運ばれてきた魔物を前に、ジュノンは楽しげに声を上げた。
「すっごい! 大量じゃない!」
言うと、ロニテスがジュノンの耳元で一言、
「シャーレが見つけるの、すごいうまいんだ。俺はこの一匹しか見つけられなかったぜ」
そう言って指したのはウサギ型の魔物の方だ。魔物たちはすべて、足をまとめられて死んでいる。皮をはいで半日干せば、立派な干物になるだろう。シャーレは早くも今日食べる分を切り分けて、残りをまとめている。とった毛皮は街で売れるのでひとまとめにしてしまっていた。
「ライフ達はまだか? 今日の夕飯は久しぶりにちゃんとしたもの食えるぞ」
まあ、魔物肉の料理が「ちゃんとしたもの」ならな、付け足してロニテスは豪快に笑った。何やら彼の機嫌がいいのを察して、ジュノンはシャーレとの間に何かあったのだろうかと考えた。
(ロニーはこの前からシャーレに対してちょっとぎこちなかったもんね。仲直り……じゃないけど、仲良くなれたならそれは嬉しいな)
ロニテスは自分の兄みたいなものだし、シャーレだって姉のような存在だ。二人が仲良しであれば、自分だって嬉しい。……ちなみにライフガントルは親友であり兄であり父であり祖父である。最後のは彼には内緒だ。(もっとも、年齢的に言うと祖父が一番ぴったりくるのだけれど)
そうこうしているうちに噂のライフガントルが戻ってきた。まだ遠くのほうでライフガントルの物だと思われる黒い影しか見えないが、そこから感じる気配は間違いなくライフガントルとシューのものだった。
「あれ?」
そこで少し疑問に思って声を上げる。気配は確かに二人分感じるのに、影はひとつにしか見えない。ジュノンの声を聞いてシャーレがそっと隣に立った。彼女もまたジュノンと同じようにライフガントルの姿を確認すると、顔をしかめて低い声で呟いた。
「……シューに、何かあったらしいな」
言い残して、彼女はさっとテントの方へ向かってしまった。言われた意味がよくわからず、ジュノンはなおも呆然とし続けていたが、やがてライフガントルの姿がしっかりと認識できるようになると、その意味を理解する。
シューはライフガントルの背にぐったりとおぶさっていた。
「シュー!?」
認識して、吃驚して、思わず大声を上げてしまった。ライフガントルがその声にこちらに気づき、やや顔をしかめる。彼が小さく溜息をついたのが見えて、ジュノンはあわてて口を手で押さえた。
テントまで連れてこられてシューは、遠目で見たとき以上にぐったりとしていた。全身から汗が噴き出し、呼吸が荒く、どこか苦しいのだろうか、苦痛に低い声でうめいている。ジュノンははっとしてライフガントルを見た。
「……突然魔物に襲われてな、その魔物の爪に神経性の毒があったらしくて……」
ライフガントルは憎々しげに低い声でそう言った。「俺がもっと早く気づいていれば」と付け足されたのを聞いて、ジュノンはそこで初めて、ライフガントルが焦っているのだと気がついた。
「どけ、見せてみろ」
とりあえずテントに寝かせておろおろしているジュノンとライフガントルの背後から、低い声でそう告げてシャーレがやってきた。後ろには水の入った鍋とタオル、木の実のようなものを抱えているロニテスがついている。
「……治せるのか?」
「わからない。ただ、痛みと親交を和らげるくらいはできるはずだ。ロコモラまであとどれくらいかわからないんだ、それまで持たせるしか方法はない」
ライフガントルの消えそうな声に、シャーレは淡々と言ってしゃがんだ。ロニテスに早口で指示を出し、ロニテスもそれに従う。数分後には、大量の汗でぐしょぐしょになった服を着替え、汗自体もきれいにふき取られた、幾分すっきりした感じのシューがそこにいた。
「……初めの山は乗り切ったみたいだな。しかしまだ安心できん」
ロコモラまで連れて行かないと、確実に死ぬだろうな、と、最後に低い声で言ってシャーレはそれきり口をつぐんだ。今のシューの姿は痛々しい。「姐さん」といって慕ってくれていた彼がこんな姿になって、シャーレ自身も辛いのだとジュノンは思った。
(僕……僕に、何ができるんだろう)
“仲間”と呼べる人たちをこの旅ではじめて見つけた。今度こそ“絶対に失いたくない”人たちができた。なのに、自分は何もできない。何をして上げることもできない。
ミドラの時と同じように。
ただこの目でその死を眺めていくことしかできないのだろうか。考えると悪寒が背筋を走った。そんなことは嫌だ、そんなこと信じたくない。
もう二度とあの喪失感を感じたくない。
もしシューが死んでしまったら、ライフガントルはどうなるというのだ。唯一彼の苦しみを理解できていただろうシューが死んでしまったら、ライフガントルは一体誰と苦しみを共有すればいいのだ、それはジュノンにはできない。
ジュノンは孤独の闇を知っているが、ライフガントルはジュノン以上にそれを知っている。目の前で友人たちが置いていくのを眺めながら、自分だけは若々しい姿のまま。彼らが老いて死んでゆくのを見ることしかできなかった、ライフガントルの孤独とは、ジュノンの孤独は明らかに差があった。
シューが仲間になってから、ライフガントルが彼に対してだけはどこか自分たちと違う感情を抱いているのをジュノンは知っていた。それは多分、ハーフ故に自分と同じ「孤独」を感じ続けなくてはならないシューを気にかけていたからだと思う。それが、この旅でよくわかった。
だからこそ、ライフガントルの目の前でシューが死ぬような事態にはしちゃいけないことをジュノンは嫌と言うほど理解していた。今、シューが死んだら、ライフガントルはどうなるというのだ。
「俺……が」
その時だった。シューを囲んで全員が沈黙していた時、ぼそりとライフガントルが声を上げた。
「俺の……魔法に、転移魔法がある……」
ぼそりと低い声で呟いたライフガントルは、じっとシューの苦しそうな表情を眺めながら続ける。
「すぐにロコモラにつくわけじゃねえ。俺が、正確にその場所を把握してないと使えない魔法だ……けど、たとえば目に見える範囲……たとえばここから見える地平線の場所までとか……なら、運ぶことができるはずだ」
彼の言いたいことが何なのか、全員が理解した。ライフガントルはシューをじっと凝視したまま、どこか上の空、と言った様子でさらに続けた。
「こんだけの人数を運んだことは数回しかないから、今もできるかわからんが……こうしてだらだら歩いているより、俺が転移魔法を使って進んだ方が……早く着くんじゃないか」
確かにその案はよさそうに思えた。シューを背負って長い道のりを歩くのには、シューにも負担がかかるし、シューを背負う者にも負担がかかるだろうから。そんなことをしてシューの病気を悪化させては元も子もないし、プラスして他の誰かが倒れるなんていう事態になったら最悪だ。賛成の声を上げようとジュノンが口を開く前に、それを遮るように素早くシャーレが口を開いた。
「だめだ」
淡々とした冷たい声色がテント内に響いた。
びっくりして、ジュノンは彼女を見る。彼女の表情からは何も読み取れない。
「俺も、反対だな」
自分の隣からも反対の声が上がって、ジュノンはますますわけがわからなくなった。いったい、どうして?
「……リスクが高すぎる」
「ダキリアで前、あんた言ってただろ。“使い過ぎると疲れる”って。俺達が三界力を酷使してばてるのと同じように、あんただってあんたの魔力を酷使したらぶっ倒れるはずだ」
二人分の面倒は見切れねえ。
続けて言われたシャーレとロニテスの声に、ジュノンははっとした。確かに、何度も何度も魔法を使った後のライフガントルは、いつもよりぐったりしていた。
「……だが、一刻も早くシューをロコモラに連れてかないと……」
「そう、そこだ。そもそもおかしいと思ってるのはそこなんだ、ライフ」
反論しようと声を出したライフガントルに視線を向けながら、シャーレは先と同じように淡々とした様子で言った。
「お前ほどの人間なら、魔物が持っている毒に対する解毒剤くらい、持っていても不思議ではない。いや、そもそも、シューが魔物に襲われるまで魔物の存在に気付かないということがないはずだ。なのにお前は言った。“突然魔物に襲われた”と。今までの戦闘を見ている限り、確かにシューは戦闘向きじゃない。シュー一人なら襲われても納得できる。だがライフ、お前は違う。数百年と生き魔力を持つお前が、ま物事気に背後を取られるのか?」
いいや、違うね。
シャーレの言葉にライフガントルの瞳が大きくなっていくのがわかった。ばっと彼女を見上げて彼女の視線とライフガントルの視線が重なる。シャーレは低い声で、ライフガントルの目を見据えながら、言った。
「お前は……お前たちは、私達にいったい何を隠している?」
ライフガントルが低い声で唸った。