ダキリア発の汽車と比べ、森の中の無人駅から乗った汽車は大分小柄ですすけていた。古臭い匂いを漂わせる車内には乗客などほとんどおらず、二十分もあれば先頭から最後尾まで歩けるほどだった。
ジュノンは森の中で見かけた少女がもしかしたら乗っているかもしれないと、車内を歩いて見回ったのだが、汽車に乗っているのは自分達と車掌くらいで、誰もいない。
ライフガントルたちの待つコンパートメントまで戻ると、レイニータウンについてライフガントルが説明し始めた。
「レイニータウンに行くには、ちょっと手間がかかる。お前ら、レイニータウンの名の由来を知ってるか?」
知らない、意味を込めて首を振ると、ライフガントルはにやりと笑う。
「レイニータウンは、深い霧で覆われているんだ。元々巨大な湖の中心にある孤島でな、湿度が高い上に、夜になると湿度が増して雨が降る。町は巨大なドームで囲まれているから雨には当たらないが、ドームの外に出れば何も見えない」
なるほど、ジュノンの隣でロニテスが言った。
「毎夜毎夜雨が降るものだから、住人達は町をレイニータウンなんて名づけやがった。霧は町を守るのに最適だった。魔物からも、盗賊からも」
ふと窓の外を見る。すでに薄い霧が立ち込めている。
「町人は用心深くて警戒心が強い。だからもちろん、町の中に入るには条件が必要だ。身分の証明がはっきりできて、なおかつ武器を持っていないこと」
え、ジュノンとロニテスはほぼ同時に声を上げた。
「メディアスなんてことがばれたら、絶対に入れてもらえないじゃないか!」
「そのとおり。それに、俺たちは全員なんかしらの武器を所持している。俺はごまかせたとしても、ジュノンの剣やロニテスの弓なんかはどうやっても無理だ」
じゃあどうするの、聞かれるのを拒むように、ライフガントルは窓の外を見た。汽笛の音が鳴り響いた。
「そろそろだな。降りる準備をしろ」
「え、でも……」
「いいから」
急かされて仕方なく支度を済ます。鳴り響く汽笛の音が止むのと同時に、軽い振動とともに列車は止まった。わけもわからず顔を見合すジュノンとロニテスを、ライフガントルは面白そうに見つめていた。
列車を降りると途端に体に濃い霧が巻きついた。視界が真っ白に変わる。何も見えず、ホームから動くこともできない。あまりの霧の濃さに立ち尽くしていると、少し行ったところからライフガントルの呼び声が聞こえた。
「ジュノン、ロニー、こっちだ」
どうやら手を振っているらしい影がぼんやりと先に見える。影といっても、手を振ることによって霧が動き、それでようやく色の違いがわかる程度だ。そこに本当にライフガントルがいるかなんてわからない。とりあえず呼ばれた場所へ向かおうと、ジュノンは適当に傍にあった手をひっつかんだ。ロニテスもまたさっさと行こうと思ったのか、すぐ近くから声が聞こえた。
「行こうぜ、ジュノン」
「うん」
お互い何も気にせずに歩き出す。階段気をつけろよ、と同じ場所からライフガントルが注意した。言われたとおり、ホームの出口はすぐに階段になっていて、よたよたとゆっくり降りる。きちんと地面に足が付いているのを感触で確かめてから、ジュノンはさあ行こうと手を引っ張った。
「ロニー?」
まだ言い慣れない愛称で呼び掛ける。引っ張った手は動こうとしなかった。強い意志でそこにとどまったままで、先に進もうとしていない。変だな、そう思ってもう一度引っ張ろうとして、
「どうしたジュノン、早く行こうぜ?」
前から声が聞こえた。聞き慣れた声は明らかにロニテスのもので、ジュノンはさっと血の気が引くのを感じた。
「そこに何かあるのかよ、ジュノン」
どうやらロニテスも自分とおなじ「それ」をひっつかんでいるようだった。一向に動く気配のないのはジュノンだと思っているらしい、苛立った声が左少し前から聞こえて、ジュノンは静かな音で声を上げた。
「ロニー、僕はこっちだよ」
「え?」
瞬間、ロニテスも異変に気がついた。なにせこの霧で自分の手さえ分からない。近くにいると思ったから手を引っ張ったといって、それが仲間であるとは限らなかったのに。
「ジュノン…は、こっちにいるのか?」
困惑した声でロニテスがつぶやいた。何かが近づいてくる気配を感じ、びくりと身をすくめるとそれはロニテスの掌だった。確かめるように頭から顔から乱暴になでられて、満足したようにひっこんでいく。
「確かに隣にいるのはジュノンだな。じゃあ、こっちにいるのは…?」
隣にいる人物の手を後ろ手に引くことは不可能だ。図ったわけではないが、同時に二人で振り返る。そこに見えるのは濃い霧。しかし、ぼんやりと何かがあるような気がする。それはあくまで「気のせい」の段階だが。
小さな機械音が聞こえた。わずかな音に吃驚して、二人とも握っていた手を放す。何か不思議な言語が聞こえたかと思うと、かちりという音と共に辺りの霧が晴れていった。それはまるで何かに吸い込まれていくような晴れ方で、辺りといってもジュノンとロニテス、そしておそらく霧を吸い込む何かを持っているのであろうもう一人のまわり、半径十メートルくらいの円形で、そこから先はやはり濃い霧で包まれている。
「おまえっ…!」
視界がはっきりしたことで互いの位置を瞬時に確認しあった二人は、目の前に現れた小柄な少年に目を見張った。
彼は真っ白なローブを身にまとい、同色のフードをすっぽりと頭にかぶっていた。深くかぶされたフードでその瞳を見ることはできない。口元には少しすすけた灰色のマスクがあてられており、マスクには赤字で大きく×と書かれていた。フードとマスクで、少年の表情は完全に分からない。
少年は球体の機械をぶら下げていた。太い鎖で首からつられたその機械が、どうやら霧を晴らした要因らしかった。細かな機械音とともに、入口と思われる小さなでっぱりからしきりに煙が出ている。彼は解放された両手で機械をつかみながら、ぼんやりと二人をみつめていた。
「誰だ?」
冷静な声色でロニテスが尋ねた。少年は答えない。小柄といってもジュノンと同じか、それ以上の体格だろう。ジュノンは気持ち目線を上にあげる形で、ロニテスは気持ち目線を下げる形で、目の前の怪しい少年をにらみつけていた。
「おーここにいたか」
その時だ。今にもロニテスが矢を放ち、ジュノンが切りつけようという状態の時、二人の背後から聞こえたのはライフガントルののんきな声だった。はっとして振り返ると、そこには緊張感のかけらもないライフガントルの姿。彼は見知らぬ少年を気にすることもなく、三人の中心まで入って行った。
「久しぶりだな、シュー。相変わらず人を驚かすのが趣味みたいだな」
ライフガントルがそう言って少年の頭をなでた。彼はゆるく首を振って、ライフガントルを見上げた。フードの隙間から、リスのような大きな瞳が見える。
「知り合い? ライフ」
未だ警戒心を解けないジュノンが問うた。ライフガントルはああ、と簡潔に答えると、同じように臨戦体制のロニテスを制した。二人に警戒を解くよう指示する。
「こいつはレイニータウンの守人・シュー。俺の昔馴染みで、第三魔法使いの子供。まあ、簡単に言やぁハーフみたいなもんだ。俺ほどじゃないが、半不老の体になってる」
「魔法使いのハーフ……」
ライフガントルの説明を受け、ジュノンは構えていた利き手をゆっくり降ろした。ロニテスも魔力を練るのをやめたようだ。なんとか冷静に状況を判断しようとするジュノンとは別に、瞬時に理解したロニテスがライフガントルを見上げた。
「てことは、あんたの秘策はこいつってことか?」
「ああ。まあ、そうだな。レイニータウンは一見何の争いごともない平和な都市に見えるが、実際はそうじゃねえ。世俗と完全に隔離されているがゆえに、内部に凶悪犯罪を抱え込んでいる可能性が高いんだ。しかしその防衛上、国のお役人でも獲物を持って入ることはできない。そこで、シューがスパイとして侵入してるってわけだ」
スパイっつうか、手引きって感じだけどな、と、ライフガントルは笑いながら言った。シューと呼ばれた少年が、改めて二人に向き直り礼をする。どうやらマスクの「バツ」は、喋ることができないもしくは禁止しているという合図らしい。
「レイニータウンの守人になるにはいくつか条件があるんだが、なんとかクリアできたのがシューだけでな? そんなわけで、裏から獲物を持ったままタウンに侵入したけりゃシューに頼めばいいってわけだ」
なるほど、と二人は納得する。いきなりシューだけが現れてもなかなか信用できなかっただろうが、何せライフガントルの知り合いなのだ。ジュノンやロニテスと比べ何十年・何百年と長く生きているライフガントルが信用しているのだから、シュー個人に危険はないとみていいだろう。ただ、ライフガントルも知らない間に何らかの組織に取り込まれていなければ、の話だが。
ロニテスはシューをよく観察しながら、しかしどこかほっとしていた。
(あんな状況でジュノンやライフと引き離されたまま、個々人に襲撃を受けていたら間違いなくお陀仏だったなー……いや、俺もまだまだ甘いわ)
ライフガントルまで、とはさすがにおこがましくて言えないが、少なくともジュノンと同程度かそれ以上の戦闘経験は積んでいるつもりだ、何事も油断せず、と常日頃から考えていたにもかかわらず、先ほどの体たらくはなんだ。ロニテスは握ったこぶしに力を強め、一度だけ頭を振る。今はただ運がよかった、それだけだ。実力を過信してはいけない。
「じゃ、じゃあ、僕たち普通に入れるんだね!?」
すっかり安心しきった様子のジュノンを呆れて見ながら、ロニテスもライフガントルを見た。ライフガントルはにやりと笑って、
「もちろん、普通にゃぁ入れねえけどな?」
至極当然のことを言った。
どんな理由か定かではないが、話せないシューの代わりにライフガントルから受けた説明によると、レイニータウンへ正規の方法以外で侵入するには、都市の地下部分に当たる、アンダーシティに向かう必要があるらしい。しかし、一応犯罪者やならず者を簡単に都市へ入れることはできないので、簡単な適性検査が行われる。といっても、検査内容は個々人それぞれ、実質時間は数秒もかからず決まるが、一度検査に合格すると、その後いつ来ても自由に出入りさせてくれるという。
「まあ、どんな検査だろうがばっちりだけどな!」
不安の色を消し去ったロニテスが張り切って言う。ジュノンはしかし心配だった。
(ライフガントルはもう検査しなくていいってことだよね……ロニテスは確かに何でもこなしちゃいそう。検査は個々人で違うって言うし……うまくクリアできればいいんだけど)
「ほら、ちゃっちゃとやってもらえ。俺が暇だから」
悩む暇も与えず、ライフガントルはシューを二人の目の前に押し出す。表情が隠れて定かではないが、シュー自身もさっさと検査を終わらせたいようだった。
「つっても……どうすりゃいいんだ?」
ロニテスがもっともなことを言うが、シューは相変わらず答えない。ジュノンがライフガントルを見詰めたので、彼は仕方なく肩をすくめた。
「シューの目をみてりゃいいんだ。あとは勝手にやってくれる」
いまいちわからない説明に、ジュノンもロニテスも首をひねった。シューは二人を見てどちらから始めるか決めたらしく、右手でフードを少し持ち上げ、ロニテスの肩に手を当てて彼の瞳を見た。
「っ!?」
瞬間、ロニテスの体がぐらりと揺れた。ジュノンはそれを傍らから眺めていたが、シューの瞳は見ることができない。彼がうまくフードを抑えているせいで、ロニテス以外は見れなくなってしまっている。ロニテスの方を見ても、彼はまさに「視線が離せない」様子でシューの瞳だけを見つめていた。
首をひねること数秒、どうやら帰って来たらしいロニテスの体が、先と同様にびくりと揺れた。
「っはー!! あ、な、なんだ……?」
ずっと息を止めていたかのような、深く長く息を吐いた後、ロニテスは驚いたようにあたりを見回した。その様子にライフガントルは心当たりがあるらしく、にやにやと笑いながらロニテスを手招く。
「じゃー終り組はおれの傍な。ほれ、ジュノンもさっさとやってもらえ」
にやにやしながらそういうライフガントルはひどく楽しそうで、ロニテスは言われたままとりあえずライフガントルの元へ行った。体がふらふらしている。ジュノンがそれを見逃すはずがなかった。
「ちょっと、ロニテス大丈夫? いったい何が……」
「おおっと、それは言っちゃいけねえことになってるはずだぜ? な、シュー」
話そうとしたロニテスの口を、ライフガントルがその大きな手のひらでふさいだ。突然口を覆われたロニテスは驚きじたじた暴れたが、ライフガントルの力の前では天界力でも使わないと無理に等しく、そのライフガントルは手を離す気はないようだった。
「ほら、さっさと進めちまいな」
どうやら本気でさっさと前に進みたいらしいライフガントルは、問答無用のオーラを放ちながらシューに言った。シューがこくりと頷いて、ロニテスの時と同様、右手をフードに、左手をジュノンの肩に添える。
「え、ちょ、ま、心の準備がああーっ」
あわててそんな言葉を発してみるも、緩くシューの首が振られて無理だと悟った。フードが少し持ち上げられて、彼のそのリスのように大きな瞳が目に入る。
そしてその瞬間、ジュノンはどこか見知らぬ場所に立っていた。
声が聞こえた。何もない空間。闇が取り巻く真っ白な空間。白い闇は僕の色、自然そう思って小さくうつむく。真っ白なキャンバスには何も描かれていない。
声が聞こえた。くすくすと笑う声。どうしてそう思ったかわからないが、白色の闇の中で、小さくたたずむ自分が見えた。
声が聞こえた。次第に大きくなってゆく。何かがキャンバスを走り去る、音もなく走り去る。立ち上がっていたはずの自分がいつの間にか屈んでいて、走る影は大きくなってゆく。
くすくす くすくす くすくす
まるで自分を嘲け笑うように、見下すように。
僕の周りを走っているのは誰だろう? 思えど答えは出ず、走る影は大きくなってゆく。
「あなたがころしたのよ」
誰かが言った。小さな声で、言った。
「あなたがころした」
「そう」
「あなたが」
「ころ」
「した」
声は止まらず囁き続けた。聞きたくなくて耳をふさぐ。まるで駄々っ子のように、大きく大きく首を振る。
「違う!!!」
叫ぶと声はぴたりとやんだ。小さなくすくすという笑いを残して、走っていた影が自分を見下ろしているのがわかる。はたして、誰が見下ろしているのだったっけ。
「違くないよ」
「殺したんでしょ?」
雑音のような小さな囁き笑いに混じりながら、声は再び言った。ああそうだ、見下ろしている影が囁いているのだと、ようやく気がついたことに少しだけ驚く。
「違う……」
なおも頭を振り続けると、血の気が失せてくらくらとした。そのままぱたりと横に倒れる。邪魔な前髪の隙間から見えた白いキャンバスに、大きく描かれた三人の影。
「幸せな生活」
「崩れたのは」
「誰のせい?」
あの時彼に声をかけようとしなければ、あの時森の中にいなければ、自分は何も知らずに幸せを生き続けていられたんだろうか?
問いかけているのは自分だった。大きな影はくるくるまわって、囁きながら笑いだす。くすくす、くすくす笑い出す。
「おかしいね」
「おかしいね」
もうその影が己自身だと知っていた。そうだ、あれは幻影だ。幸せだったあの頃の、わずかしかなかった幸せの、一片。
――その誓いは、ウソなのかな?
瞬間、ずきりと体に痛みが走る。はっとして手を掲げる。あおむけになって、白い闇のキャンバスに描かれた大きな人影を見上げながら、己の掌をゆっくり返す。
ぽたり、と何かが滴った。赤い、赤い色。どこから流れているのだっけ? よく思い出せなくて、じっと凝らして見つめている。
ぽたり、ぽたり。どこかから流れ出てくる真っ赤に染まった色は、白い闇の中で酷く美しいもののように見えた。ようやく気づく。
「左手……」
そうだ、誓ったんだ。これは誓いのしるし。
広げていた掌をぎゅっと閉ざせば、掌に伸びた爪が食い込むのがわかった。軽い痛みが両手を襲い、だが構わずに握りしめる。左手の甲に描かれた十字の傷からはとめどなく赤い、赤い血が流れている。力を込めれば込めるほど流れ出るそれに、まるで操られたように舌を出した。
ぴちゃん
確かそんな音だった。そしてそれが終わりの合図だった。
ぐるりと世界が反転して、真っ白い闇のキャンバスに描かれた巨大な人影が消えていく。世界に溶け込むようにして薄く薄くなっていくそれを、相変わらず仰向けになったままぼんやりと眺めていた。いつまでもそうしていたいような、不思議な感覚。全身を襲った痛みも、握りしめた手のひらの痛みも、もうどこかへ消え去っていた。
ただ、口の中に残った赤い赤い色の味が、いつまでもいつまでも残っていた。
はっとする。魂が体に引き戻された感覚。何かに勢いよくつかまれたように、ジュノンの体は飛び跳ねた。
「あれ……今……?」
何が起きたのか瞬時に理解できない。それどころか、何を見たのかもう思い出せない。ただ、どこかへ引っ張られ、そして何かを見たということだけが思考の中に残っていた。
「どうだ? シュー」
ライフガントルが青ざめたジュノンを気にもせずに声かけた。目の前でジュノンの肩を掴んでいたシューは、ゆっくりその手を離すと小さくうなずいた。どうやら通行許可の合図らしい。未だ混乱しているジュノンに、ロニテスがけげんそうに顔をのぞく。
「どうした? 何かよっぽどきつかったんか?」
聞けども、どう答えていいかジュノンにはわからなかった。ただ、ひどく嫌なものを見た気がする。それだけだった。
「なんでもないよ。じゃあ、行こうか」
何とか無理やり笑顔を作ると、ロニテスはしぶしぶ身を引いた。どっと汗が出ているのがわかる。何が起きたかわからないが、ライフガントルの説明通り、数秒の間で何か検査が執り行われたのだろう。それがどんなものか、ジュノンはもう思い出せないけれど。
歩きだしたシューを追うように、ライフガントルたちが動き始める。ジュノンもあわてて足を踏み出すが、ふと、傷が疼いたようで掌を見詰めた。そこにはいつも通りの左手。自身への復讐を誓ったジュノンが刻んだ、十字の傷。一瞬鮮烈な赤が視界を埋めたが、しかしそれは一瞬で終わった。
(なんだったんだろう……)
それはジュノンの知るところではない。おそらく、知ってはいけないことだ。
ただ、かすかに感じる鉄の味に、ジュノンはひとり小首をかしげた。
案内されたのは一隻の船だった。荷を運ぶ小さな船で、木箱が何箱かすでに積み上げられており、その上から大きな麻布がかぶさっていた。
「この中にとりあえずは隠れとくんだ」
ライフガントルは手慣れた様子で木箱の隙間に体をうずめるうと、自身の身が隠れるように布を被せる。シューの顔がくい、と横に動いたのを見て、ジュノンとロニテスもあわててそれに倣った。
「この霧はな、絶対防御にもなるが、それは逆に、全く侵入がわからんということにもなるんだよ」
ライフガントルはひそめた声で言った。彼のすぐそばで息をひそめていたジュノンは、小さく息をのんで聞き返す。
「どういうこと?」
「ばかだな、霧が濃くて相手が迷うことを前提としての絶対防御だろ。道を知っているやつさえいれば、誰がどこをうろついていようが、味方にもわからねえのさ」
つまり、シューのような手引きするものがいれば、誰でもほぼ見つからずに進入できてしまうということらしい。ジュノンはふむ、と頭をひねる。
「もろ刃の剣ってやつ?」
「まあそんなところかな。メリットの割にゃリスクが高いんだ」
それなのにここの連中ときたら全くわかっちゃいねえ、ライフガントルが苦笑して言った。
「おい、シューが何か静かにしろって」
黙って聞いていたロニテスが、前方で船をこぐシューの指示を何とか読み取り伝達する。ライフガントルはそろそろだ、と一言だけ残し、それきり、何も言わなくなった。
(不思議な町だなあ……)
腰にさした剣が船の揺れでかすかにカタカタなっている。この程度の音なら荷の音とも聞こえるので大丈夫らしいが、静寂を破るその音は少し不吉な音に聞こえた。ぼんやりとそんなことを考えていると、ジュノンは不意に、別の音を聞き取る。
「ねえ、ロニー」
先ほどよりもうんと声をひそめて、自分の少し前に隠れているロニテスに声かける。
「どうした?」
ロニテスはちらりと目線だけジュノンによこして、話の続きを促す。
「なんか、ごおーって、小さな音がしない? それも近づいてきてるような……」
確かに、何かのうなりみたいな音が徐々に徐々に近づいてきているのを感じた。船が少しずつだが揺れを増し始めている。剣の揺れる音に混じって、ロニテスも確かにその不穏な音を聞き取った。
「確かにしてるな。ライフ、本当にこいつに任せて平気なのか?」
今度こそきちんと振り返ってジュノンとライフガントルを見たロニテスは、じっとライフガントルの瞳を見詰めた。彼は何も言わなかったが、その口元はいやらしくにやりと笑っていた。
(なんつー悪人顔……!)
思わずぞっとしながら首を振る。今さら聞いても仕方がない、乗ってしまったものは乗ってしまったのだ。腹をくくるしかなさそうだった。
「まあとりあえず大丈夫だろ、何かあったら全力で逃げろよ」
ロニテスはジュノンの肩を一度だけ軽く叩いて、再び前に向き直る。ジュノンはそんなロニテスをぼんやり見つめていたが、とりあえず一言だけ。
(って言われてもなぁ……)
巨大な湖の真ん中で、溺れ死ぬのだけは勘弁だよね、と心の中で突っ込んだ。
直後、がたりという音とともに船が何かの流れに乗ったようだった。シューが手を止めている。ゆっくり、ゆっくり回転を進める船の動きに気付いた時、ジュノンはいったいどうなっているのかに気がついた。
「うっ……!!」
渦! 叫ぼうとした声は、隣のライフガントルの手でさえぎられていた。口をふさがれている。巨大な手が自分の声の発信を妨げて、ジュノンはそのままもがもがと意味なく空気を漏らした。
「大丈夫だから、安心して見とけ」
ライフガントルは先のにやり顔のまま、ジュノンに目を向けた。湖なのになぜ渦が発生しているのかとか、正直突っ込みたいところはいくつもあったのだが、ジュノンはとりあえず混乱していた。何せジュノンは泳げない。金づちというわけでもないし、必死になればなんとか泳げるには泳げるが、それでも自分の泳ぎについての才能のなさは身に染みて知っていた。渦に巻き込まれて船が大破、全員泳いで陸に上陸なんて言われても、簡単にできる気がしない。
「うっわっ!」
前方で耐えきれなくなったロニテスが控えめな声で叫んだ。シューが鋭く彼を見たのですぐさま口をふさいだが、ジュノンも声を出したい気持ちはよくわかった。
ごとん、と先ほどよりも大きな音がして、船がゆっくりと下降していったのだ。渦の中心に向かって。もしやこれは飲み込まれているのでは? 僕たち死んじゃう? 不穏なことが一瞬にして脳内を駆け巡り、耐えきれずに目をつぶる。水を感じて海の底に叩きつけられるイメージを瞬間的に浮かべたが、しかしそれはいつまでたっても来なかった。
「眼、開けていいぞ」
軽い浮遊感は数秒続いた。そのまま落下のスピードを感じて、再び何かのがたんという音が聞こえたと思ったら、ライフガントルが耳元でそんなことを言っていた。
「うわぁっ!」
近くで言われたものだからびっくりしてのけぞると、ようやくふさがれていた口から声が出て、ジュノンはぱちくりと瞬きをした。
そこは洞窟だった。おそらく湖の地下なのだろう、滝のような音が響き渡っていて、前方に鈍い光が集まっているのが見えた。
「ここは……?」
一人で何とか乗り切ったロニテスが、シューに向かって聞こうとし、話せないことを思い出してライフガントルを見た。ライフガントルは楽しげに口をゆるませながら、
「レイニータウンの悪の巣窟・アンダーシティの入り口さ」
あくのそうくつぅ? 繰り返したのはどうやらロニテス一人ではなかった。落ち着きを取り戻したジュノンもその言葉の響きをきっちりキャッチし、ライフガントルのあんまりな言い方に不満げな顔を見せている。
「まあ、そんな顔すんなって。実際、アンダーシティは俺たちみたいな不正侵入者が最初に入る場所だから、治安はオーバーシティに比べて格段に悪い。オーバーシティで犯罪を起こした連中が、アンダーにある収容所に入れられるってのもあると思うけどな?」
涼しげな顔でそんな説明をされると、先の「悪の巣窟」とのギャップにいまいちイメージがつかめなかった。シューがこちらに視線をやったのを機に、三人とも押し黙る。船は前方の鈍い光に向かって進んでいるようで、ゆらゆら揺れる光は徐々に大きくなっていった。
「入口だ」
ライフガントルがつぶやいたのと、はっきりとその全貌が分かったのと同時だった。そこには、両側を松明で照らされた、巨大な扉がそびえていた。頑丈で重そうな扉の表面にはコケやツタが絡みついていて、天井から滴る雫がぴちゃぴちゃと音を鳴らした。
まるで古代遺跡のようだ、ジュノンはぼんやりと思って、促されて船を降りる。窮屈だった木箱の間からようやく解放されて、関節の節々が小さな悲鳴を上げた。
「どうするの? ていうか、開くの? この扉」
疑問に思って口に出すと、ライフガントルは先ほどと同じようなにやり顔をしたまま、黙って見てろと口元に人差し指。ロニテスと顔を見合わせ、ジュノンはいいようにからかわれているのを実感した。
扉の横につけられた松明の、右側の方の下部に、何か石版のようなものが埋め込まれていた。石灰石のような、白濁色で鈍く松明を反射させるその石版にシューが近づいていく。おもむろにシューは懐からナイフを取り出した。一瞬ぎょっとしたジュノンとロニテスをしり目に、彼は躊躇なく自身の右手にナイフを当てた。す、と引いて親指の付け根から赤い色が流れた。真っ赤なそれを垂れないように一度舌でなめとってから、シューは右手を石版にあてた。
「 」
なんて言ったのかは聞きとれなかった。ただ何かをシューが囁いたのだけはわかった。瞬間、三人の目の前にそびえたっていた扉が地鳴りとともに手前にずれる。近くにいたロニテスはあわてて身を引いた。
「すごーい」
小さい声でジュノンが言うと、石版に手をあてたままのシューが不意にジュノンを見た。一瞬目があって、ジュノンはどきりとする。何か、何か恐ろしいものを思い出したような気になって、悪寒が背筋を走っていった。
ゆっくりとした速度で開いた扉は、大人一人が十分に入れるほど隙間を開けるとぴたりと止まった。パラパラと天井から石が降ってきて、そのうち崩れるんじゃないだろうかと心配になる。しかしシューが顎で先を促したので、ジュノンは恐る恐るアンダーシティへ足を踏み入れた。