“ラーン・ヒルガ”という青年が取った部屋にジュノンを寝かせてから、三十分ほどで彼はやってきた。少々疲れた、けれどやりきった顔をして、爽やかな汗を流しながら。
「起きる気配は無いか?」
改めて名を名乗ったラーンは、確かめるように問うた。その手には階下で主人から受け取ったのであろうコーヒーカップが握られている。そしてそれは、ロニテスも同様だった。
「しっかし、お前がここの雇われだったとはな」
ラーンは苦笑を浮かべながらロニテスを改めてみる。紺色の髪の毛に、一筋だけ入ったメッシュ。枝のようなそれは顔にかかっており、視界にかぶらないかと心配になった。瞳は水色。鮮やかで淡い、不思議な光を放つ色。思わず瞳に吸い込まれそうになって、視線をずらす。
そしてまたロニテスも、突然現れた得体の知れないラーンに興味を持っていた。ラーンは程よく鍛えられた美しい筋肉を持ち、両脇のポーチにチャクラムを入れていることから、接近戦などを好むのだろうと思う。少しでも戦うことに慣れているから、そういうことばかりに目がいくのが恨めしい。
「自己紹介がまだだったな……俺の名前はロニテス。ロニテス・スキア」
ふと我に返ったときに、相手が己を凝視していることに気がついて、今まで何の挨拶もしていなかったことに気がつく。どうとでも呼んでくれ、と付け足しながら、ロニテスは右手を差し出す。
「よろしく」
なにをよろしくするんだかと内心舌打ちを打ちはしたが、相手が抵抗無く握手に同意したので良しとした。その外見から想像もつかないほど冷たく凍えた手に、一瞬ぎょっとする。
「お前、寒いのか? ジュノンは俺が見とくから、先に風呂でも入ってきたらどうだ」
あまりにもびっくりして見上げると、ラーンは驚いたように目を見開いた。ロニテスが何かおかしなことを言ったかのように。
「……そうか」
何か小さく呟いた、その言葉はロニテスまで届かない。しばらく沈黙を保った後、ラーンはいや、と首を振り、次に見たときにはすでに笑顔になっていた。
「そうだな、じゃあこの馬鹿のことは頼んだ。目覚めたら暴れるなんて事はないと思うが」
「嫌なこと言うなぁ……」
服屋の惨事を思い出して、一瞬吐きそうになる。この細い体の、それこそ女のような身体のどこにあんな力があったのだろう。ロニテスの一瞬の物思いに気づくことなく、ラーンは荷物をあさるとすぐさま部屋を出て行った。
(そうか、そういうことか)
風呂場へ行く道すがら、ラーンは何度も思考を繰り返す。先ほどロニテスが一瞬唖然としたのに気づかなかったわけではない。己もまた、ある種の驚愕と共に唖然としていた。
(あの時ジュノンに向かっていた矢は、そういうことか)
行き慣れている風呂場をさも初めて行くかのように振舞って、店の主人に道を聞いた。だが主人が答える間も、ラーンの心はそこに無い。案内されながらゆっくり歩き、己の熱い掌を握った。
(未熟で不安定な矢だった。だから気にしていなかったが、今、確信した)
脱衣所の扉を開けるとそこには誰もいなかった。何も気にせず全てを脱いで、腰にタオルを巻きつける。風呂場へ入ると、火照った身体に熱気が熱い。
(ならば彼には話す必要がある。彼の力を借りる必要がある……)
木桶で身体を流して、湯気立つ温泉につかれば、しかし考えていたことも忘れそうなほどだった。
夢を見ていた。
ゆっくりゆっくり世界が滅びていく夢。
真っ白な空間に、絵画のように描かれた自分の世界。
ミドラとカスナのいた空間。たまに遊びに来たライフガントルも、自分の大切な人の一人だ。
己の世界はなんて小さいのだろうと思う。自分を中心に広がる白い空間に、切り取られた絵画が幾つも重なり合う空間の中で。
“思い出”は色あせることなく通り過ぎてゆく。ゆるりゆるりと回りながら。
「あ」
果たして声を出すのが早かったか。一枚の絵画がはがれて目の前に落ちた。何も言わずに拾い上げ、その絵画は昔の写真。
僕とミドラと、カスナと。
確かこれは、たまたまミドラの家に来た商人が、新しい写映機だといって試し取りしてくれたものだったはずだ。カスナが嬉しそうに笑って、ミドラがいつもの仏頂面から考えられないほど微笑んでいて、自分は……
二人に囲まれて幸せだった三ヶ月間。
自分は何をやっていたのだろうと思う。なんだか無性に泣きたい気分。何が起きたのかわからなくて、けれど何かが起きたのは確実だった。
写真が破れる。
左にカスナ、真ん中に自分、右にミドラ。
三人を分かつように、写真は二つの亀裂を生んでぴりぴりと。
「あ」
完全に敗れ去って、残ったのは己の部分のみだった。切れ端の右側はそのまま地に吸い込まれてゆく。白になる。無に還る。では左側は?
カスナの写った左側。ゆっくりとひらひら落ちて、白い地面に着地した。
「…………カスナ なんで こうなっちゃったんだろうね…………」
泣いているようだった。感覚は無い。ただ、酷く胸が苦しかった。目を開けると見知らぬ天井が見え、自分の上にはきちんと布団がかかっている。
ゆっくりと起き上がる。
「ここは……」
べたな台詞を吐きながら、ぼんやりとした意識で辺りを見回す。そこは小さな宿屋の一室だった。自分が寝ているベッドから少し離れた場所に、もうひとつベッドがある以外は特に何もおいていない。ベッド間においてある小さなサイドテーブルと、同じくらい小さなイスはあるけれど。
「ロニテス?」
そういえば何で僕は寝ていたんだっけ、思いながら目に付いた人物の名前を呼んだ。彼は酷く疲れたような目で窓の向こうを見ていて、自分が起きたことに気づきはしない。
「ロニテス」
もう一度呼んで、ようやく彼が振り返る。鮮やかな、けれど淡い水色が……はじめて見た時と同じような優しい色が、ロニテスの瞳の中で揺れていた。
「起きたのか、ジュノン」
悪かったな、言って、服のことだと気がついた。ジュノンはあわてて自分を見るが、あれから着替えさせられた様子も無く、相変わらず女物を纏っているだけだった。
「お前の服は泥だらけだったから、勝手ながら俺が洗濯させといた。代わりの服を着せようかとも思ったんだが……その」
なんとなく気まずそうな顔をしたロニテスは、ジュノンがまだ怒り爆発ではないことを確認して、吐き出すように続ける。
「お前の連れが、そのままのほうが面白いからって、断固として着替えさせなかったもんでな……あと俺のじゃサイズも合わなかったし」
最後にぼそりと付け足されたのは、どちらかというと童顔であるはずの彼との体格差を、ジュノンが気にしているかもしれないという配慮のようだった。小声で言った割りに、耳の良いジュノンはしっかりとそれを受け取ってしまったが。
「まあ、いいよ。気づかなかった僕が馬鹿だったって言うのもあるし。……お店、どうなったか知ってる?」
僕一度沸点通り過ぎたら記憶なくなるんだよねー、笑いながら言うジュノンに、ロニテスはそういえば、と呟く。
「実は、お前の連れ……ラーン? が来てお前を止めたあと、俺はお前をここまで運ぶよう言われたから、詳しくどうなったかは知らないんだ。ただ、泊り客や近隣住民からも、あの店が全壊してなくなった、っていう噂は聞いていない」
あいつが直すには帰ってくるのが早かったし、付け足しながら言うと、ジュノンはそれだけで全てを悟ったようだった。
「ああ、だったら大丈夫だ」
何故だかわからないが納得してしまったジュノンを横に、ロニテスは自分ひとりがついていけていない状況にもどかしさを覚える。
ジュノンはそんなロニテスを気にしない様子で、緩やかな動作でベッドから降り立った。すらりとした身体に嫌なほど似合っている女物の服装が、忌々しくてたまらない。
「うー、スカートはいつ着ても慣れないな……」
まるで着た事のあるような言いように、ロニテスは思わず噴いた。
「着たことがあるのか?」
「子供の頃にね。よく屋敷に来た商人に女の子と間違えられてさ……育ての親も始めは僕のこと女の子だと思っていたみたいで、しばらく女物の服を着てた時期があって……今思うと人生最大の汚点のような気が」
忌々しい記憶に段々と笑みが黒くなっていく様をロニテスは見ていた。あれ、この展開はもしや、思う前にジュノンは先ほどとは違う方法でブチ切れた。
「あんのやろー! ただでさえ周りから疎遠だったのに男だってわかってからのあいつらの反応ときたら!! その前も女なら女で利用してやろうとか変な野郎がよってくるしよぉ!!」
ベッドにこぶしを打ちつけながら叫び散らすジュノンは、女物を着ているがやはり男のそれだった。ロニテスは変貌振りにただ唖然とする。
むしろ、ただ力で怒りを爆発させた先ほどのときのほうが対応できたと言うものだ。なんと声をかけていいのかわからず、手にしていたカップからは気がつくとコーヒーが垂れていた。開いた口がふさがらないとはこのことだろう。
「あの、ジュノン……」
「男とわかってからも何度嫌がらせで女物の服が届けられたことか!! 服を買うために村まで行ったら僕にだけ男物は買わせないってどういうことだよ! つーか屋敷に石投げんなこの野郎ーーー!!!」
「うっさいわボケ」
最後にひとしきり叫んでベッドに一撃拳を入れ、ベッドがメシリと嫌な音を立てて割れた直後(ちなみにその様子をロニテスは震えて見ていた。止めるという意思はすでに脳内からなくなっていたようだ)、鈍い音と共にジュノンはうずくまった。
救世主と言わんばかりに扉を見ると、そこにはバスタオルを肩にかけ、すっかり極楽モードのラーンが立っていた。
ちなみに彼がジュノンを止めた道具は濡れタオルである。投げ縄を投げる要領でジュノンの高等部にべしりと当てたのだろう。
「あーあ、ベッドをこんなにしやがって。俺だって疲れてんだぞ、無駄に力使わせんな阿呆」
どかどかと音を立てながらラーンは部屋の中央に進む。指先で空中に何か字を書き始めると、ジュノンは幾分か落ち込んだ様子で前を空けた。
「対象・1・包囲・修復」
ポソリと呟いた声は、そう言っていたように聞こえた。
中に描かれた文字は淡いブルーの光を放ちながら、その光の延長はベッドをくるりと囲んだ。
一度強い発光があったかと思われると、次に見たときは壊れる以前のベッドが、むしろ前よりも清潔感漂う感じでそこにあった。
青い光が空気に溶け込んで消えてゆく。
「完了」
最後にラーンがそう呟くと、文字は青白い炎を上げて消え去った。
「お前のトラウマはわかったから、いい加減落ち着いて対応できるようになれ。お前ももう餓鬼じゃないんだから。…………一応」
うなだれるジュノンを見ながら、ラーンは親が子供を諭すように言った。最後の一言をジュノンは聞かなかったことにしたらしく、ごめん、と小さく呟いただけだった。
「今のは……?」
しかしそんな二人の和やかな雰囲気も、ロニテスは全くついていけない。目の前でベッドが修復された事態に、脳内処理が追いついていない。
「あ、そうだよ! ロニテスの前でやっちゃって良かったの?」
ジュノンが気がついたように声を出した。どうやらあまり知られたくない力のようだったが、ラーンは気にせず直ったばかりのベッドに座り込んだ。
「別にいいんだよ。こいつは仲間にするから」
さらりと言われたことに、ロニテスは尚も着いていけない。
「あの、俺全く意味不明で頭がパンクしそうなんですが……」
自分と彼らが違う存在であるようだということは認識ができた。しかし、それで仲間だなんだと言われても意味がわからない。
ラーンはにやりと意地悪く笑うと、切り出した。
「俺の本当の名は、ライフガントル・ヒルベスト。年齢はもうどれくらいになるか数えるのも面倒なんで数えちゃいないが、世界で初めて生まれた“メディアス以外の異端能力者”でね。大まかに“魔法使い”なんて呼ばれてる」
彼が切り出したのはこうだった。
「俺は人よりも成長が何倍も遅くて、実はこの店は前主人の頃よく世話になっていた。そんなわけで、前主人の息子である今の主人にこのことを悟られないよう、偽名を使っている。ちなみに、“魔法使い”は国のトップシークレットだから、迂闊に誰かに話そうもんならお前の首でもはねるがな」
もちろん俺じゃなくて国王が、だけれども。言いながらライフガントルは至極嬉しそうだ。
ロニテスは突然話されたことの真相に混乱を抱いていた。今まで普通の人とは違う能力を持ったものを“メディアス”と呼びはしたが、それ以外に異端能力がある事は全く知らなかったのだ。
プラスして、どこか引っかかるところがあるような気がしているのも事実だった。
(そういえばヒルベストって……)
歴史書などでよく見かける名だ、と思う。国のほとんどのものがこの名だけは知っているはずだった。
サークラスの危機を救った、最初の異端児の名前。
(あれ、と言うことは……)
ふと、なんだか予感がしてロニテスはジュノンを見た。ジュノンは視線に気づいたようで、若干微笑みながら、
「言ってなかったっけ? 僕の本名、ジュノン・ヒルベストだよ。ライフの親戚」
ちなみに彼は未だ女物の服を着ていたが、もう暴れだすことはしなかった。とにかくそういわれて、ロニテスはああやっぱりと悟った。
(面倒なやつらに捕まったなぁ……)
内心溜息をついて、しかし気にせずにライフガントルは続けた。
「まあ、そんなことはどうでも良いとして。実は、数年前からある組織が怪しい動きを初めてな。つい先日、その目的が“大天魔召喚”であることがわかったんだ」
「まさか」
「本当にまさか、さ。だが事実として、ある鍛冶屋が復活の儀式で使う聖剣の見立てを断って、殺された。プラスして連中は裏で色々行動を起こし始めている」
嫌な予感にとらわれて、ロニテスはふと眩暈がしそうになった。ぐっとこらえて言葉に耳を傾ける。
「資金集めのために、最近じゃあ村一つ潰された。そして俺達は、それを止めるべく旅をしている」
言われて、なんだかようやく理解できた気がした。
「俺に、その手伝いをしろって事か?」
「まー、大まかに言うとそうなんだが、手伝いじゃない。完全に、俺達の“仲間”になれといっている」
幸いお前の事は連中まだ知らないみたいだしな、呟かれた言葉の真意は読み取れなかった。
「……ライフガントルが魔法使いで、ジュノンは……メディアスだろ。しかも力の強い魔界力と来た。だが俺は、……確かに俺もメディアスだが、中でも最弱とされている天界力だ。力になれるかどうかは……」
やんわりと断りの語を述べながら、ロニテスはそれに、と心の中で付け足した。
(今俺がここを離れるわけには……俺を認めてくれた、この町を見捨てるなんて)
しかし願望とは別に、ライフガントルがいやそれは、と続ける。
「確かにお前の持つ天界力は三大能力の中じゃ一番程度が低いと言われている。しかし、お前のそれは普通の天界力じゃないことも確かだ」
どういうことだ、そういう視線を送ってやると、ライフガントルはどこか勝ち誇ったような顔で自分を見返した。
「一般にはあまり知れ渡っていないが、はるか昔、初めて大天魔が召喚されたとき、かのヒルベストが天魔族から力を与えられた。そのとき、ヒルベストは与えられた力を三人の若者に分け与えた」
詳しい専門書などでは当然の事柄だが、ライフガントルは続ける。
「その三人の若者が、今の一般的なメディアスの祖に当たる人物たちだ。そして、彼らの能力は現在広く知れ渡っている能力とは少し違った」
段々と話が見えてきたロニテスは、なんだか怪しくなってきた話の行く末をただ聴くことしか出来なかった。これを聞いたら、自分は何か変わってしまう。
「祖である彼らの力は等しく強かった。魔界力はあらゆる闇を制し、地界力は全ての地を味方につけた。天界力もまた、どんな天候をも自在に操ることができた。今の、例えば水を出したり火を出したり、そんな程度のものじゃない。そして彼らの力は、薄れることなく受け継がれている」
ここまでくれば話がどのようにして終わるか目に見えてわかった。つまり自分はその、壮大なる天界力の祖である力を受け継いでいると、もしくは、その可能性があると良いたいのだろう。
あんまりなことにロニテスは吐き気がした。自分はそんな大それた存在ではない。しがなく弱いメディアスで、町に保護される代わりに町を守る番犬なのだ。
「祖の力を人々は大天魔を鎮めた英雄の力として、祖の力を持つものを英雄派と呼ぶ。お前はまさに、それだ」
ああやっぱりな、呟いたのは心の中で、ライフガントルの話が終わると同時に扉は荒々しく開け放たれた。
窓の外に広がる闇に心を奪われていた。ゆらゆらとゆれる闇の中は酷く心地よく、その青みを帯びた黒が自分のものになれば良いと思う。しかしそんなことは無理だ、心中で悟っている真理を認めたくなくて、ぼんやりと闇に魅入る。
「―――、なにしてる」
ふと声をかけられたが視線は窓に注がれたまま。長い髪が鬱陶しくて、漏れるのは溜息だけ。呼ばれた名前は良く聞き取れなかったが、自分のものだと理解できた。
「英雄派が見つかったそうだな」
端的に述べた言葉は相手へと向けたもの。ぼんやりと淡い光に包まれて、相手が頷くのがわかった。
「これから出向いてくる。お前も来るか?」
問われた言葉は酷く意味のないような気がした。そんなことは無理だ、当初からわかっている。
「私が彼らと出会うのはまだまだ先のことだろうよ」
自分達の主であるもののシナリオに、今自分が彼らの元へ行く記述はない。シナリオの通りに、物語の通りに。主が求めるままに、進むことしか己は出来ない。わかっていながら何故問うと、苛立ちを覚えるもそれを体内に押し込めた。
「英雄派のそばにはかの魔法使いと天馬がいる。お前一人いても連れ出すのは無理だろう」
くつくつと笑ってやれば、相手はほくそえんだように、嘲笑するように。
「そうだな、彼奴らを呼ぶのはお前の役目だった。僕は差し詰め下見だろうよ。……英雄派が祖の力に目覚めているかどうか、天馬が目覚めているかどうか……こちらは手を明かさないがな」
相手は乾いた笑いを漏らすと、不意にどこかへ立ち去る。ああ、静かになったと思いながら視線は闇の中。
ゆらゆらとゆれる闇を見つめて、まるで溶けて逝くようだと、ぼんやりと思う自分を哂った。