2. escape

 女の死体を放置して、ミドラの死体を鍛冶屋の裏の草むらに埋め墓にした後、ジュノンは汚れた体のまま自宅へ戻り、そのまま適当なものを鞄に詰め込んだ。
 どこへ行くあてもない。けれど、ここにいてはいけないと本能で悟っていた。
 ミドラがいないのなら。ミドラが死んだのなら。……そして、その命を下したのがカスナだというなら。
 自分に居場所がないことは重々承知していた、ジュノンはメディアスだから。メディアスは普通皆から疎まれる存在。嫌われる存在。

 “そうでなければならない”存在。

 涙は不思議と出なかった。服を着替えることもせず、黒髪が半分血で染まったまま、ジュノンは素早く旅支度を終えた。
 これから何が起こるかわからないが、とにかくどこかに隠れ住もう、そう考えながら扉を開く。

 しかし、扉の先にいた思わぬ来訪者に、ジュノンは思わずすぐに扉を閉めてしまった。

「ジュノン、何故閉めた?」
 低い声が扉越しに聞こえる。あまりのことに心臓が口から飛び出しそうで、しかし彼にとっては嬉しいことだった。
「ライフ…ガントル? 本当に?」
「俺じゃなければ誰だって言うんだ」
 声は憤慨したように言って、扉はひとりでに開いた。否、外にいた青年があけたのだ。
「久しぶりだな、ジュノン。まあ中に入れてくれや」
 元気そうで良かったと付け足しながら、ライフガントルと呼ばれた体躯の良い青年は、遠慮もなくジュノンの家に入っていった。


「三年ぶりか?」
 急いでるから、と言ったジュノンを制して、紅茶を出させた青年・ライフガントルは、まだ熱いカップを手にしてそう聞いた。落ち着きなくそわそわとするジュノンに比べ、一つ一つの動作をわざとらしくゆっくりにするライフガントルに、ジュノンは少し苛立ちを覚える。
「そうだよ。ねえ、ライフ、僕本当に急いでるんだ……」
「急ぐって、なんで? どこへ行こうとしている?」
 かちゃり、と、食器の音がした。
 ライフガントルの鋭い眼光がジュノンを見つめている。その瞳に飲み込まれそうになって、ふいと視線を外す。
「そういえば、さっきミドラ爺さんのところへ寄ったんだが……」
 ぴくり、と、体が動く。ミドラの家に寄ったのなら、あの惨状を見れば自体はわかるだろう、思って、強く目をつぶる。
 ライフガントルは魔法使いだ。長寿と頑丈な体をもった、突然変異で生まれた異子。魔族と天魔族以外で唯一魔力を持ち、世界中を探してもたった三人しかいない、魔法使いの一人。だから彼は何でも知っている、知らなくとも、長年の直感で様々なことを判断できるはず。
 なのに、彼はミドラのことを聞かなかった。
「ジュノン、お前が何か厄介なことに巻き込まれていることは知っている」
 言われたことに、ずきりと胸が痛んだ。そうだ、カスナは裏切ったんだ。
(……裏切った?)
 誰を、何を、自分を?
 勝手に親友だと信じ込んでいたのは自分なのに。勝手に心を許していたのは自分なのに。
「ジュノン、お前、逃げるつもりだったんだろう? どこか知らない場所へ行って、隠れて暮らそうと、そうして生きていこうと思ってるんだろう?」
 ライフガントルの言葉が痛い。胸が痛い。苦しい。
 ゆっくりと状態を前に倒し、ゆっくりと腹をさする。体中が痛かった。どこか傷ついたわけでもないのに、心が、痛かった。
「そう……だよ」
 たとえすべてカスナの陰謀だったとして、それと知らずに勝手に信じ込んだのは自分じゃないか。
 絞り出すようにして答えたその声に返ってきたのは、長くて重いため息だった。
「あのな、ジュノン。逃げて、どうするつもりだったんだ」
「だから、そのまま隠れて……」
「違う。そうじゃない。お前は一生逃げ隠れて生きていけると思ってるのか?」
 不意にライフガントルの声がゆるんだ。漂っていた痛々しい空気がさっと晴れていく。言葉と空気のギャップに、ジュノンは思わず顔を上げた。
「一生逃げ隠れて生きるなんて、絶対に無理だ。お前の何十倍も生きているおれでさえ、隠れて生きるすべなんて知らない。本当に隠れたいんなら、自分で死ぬしかねえんだよ。でも、お前は死ねない」
 え、と、声を上げたのはジュノンだったのに、ジュノンはそれが自分の声だと気づくのに数秒かかった。なんだかよくわからないことを言われた気がして、それでも何とか言葉の意味を受け取ろうと、言葉を吟味する。
「本当に隠れて生きるということが……死ぬことなら、僕は、死ねるよ」
 そうして繋げた意味を用いて、ジュノンは自分でも驚くほどはっきりと宣言した。そうだ、自分はいつだって死ねる。だって、もう大切なものなんてないじゃないか。
 ジュノンは本気だった。「何なら今から」言って、腰にさしたままの剣を抜く。ぎらぎらと輝く刀身が早くジュノンの中に入りたいと叫んでいるようで、少しだけ吐き気がした。
「僕は、死ねる」
「いや、死ねない」
 しかしライフガントルはきっぱりと言った。むっとして彼を見る。彼は、ジュノンを見ていなかった。
 静かに閉じられた瞼が、ライフガントルに今まさに自分を殺そうとするジュノンを見させんとしている。それにもなんだか腹が立って、ジュノンは乱暴に剣を置いた。
「何でそう言い切れるのさ。僕の意志が弱いとでも?」
 問うと、彼はくすりと笑みをこぼした。なぜ笑うのかわからなくて、否、それがバカにされたような気がして、ジュノンは目をつぶったままの彼を睨みつけた。
「違うさ。お前の意志は強く、固い。幻術でもかけない限り覆せないだろうよ」
「それじゃあ、なんで」
 食い下がるジュノンに、そこでようやくライフガントルは目を開けた。その瞳に映る深い緑の色が、まっすぐにジュノンの瞳を捕らえる。
「お前は、死ねないんだよ」
 言われた言葉の意味がよくわからなくて、ジュノンは一瞬呼吸を忘れた。真っ白になった頭に、たたみかけるように言葉が降ってくる。
「とにかく、お前も知っての通り、大きな力が動き始めている。俺はそれを阻止せにゃならん。んでもって、そのためにお前の力が必要なんだ」
 なあ、と、ライフガントルは続けた。考えられない、彼が何を言っているのかわからない。ジュノンは耳をふさぎたい衝動に駆られ、しかしぴくりと動いた手をすぐさまライフガントルに絡め捕られてしまって、呆然としたまま彼の緑を見ていた。
 深い、深い、緑の瞳。
「俺と一緒に、来てくれないか?」
 その言葉に決意とか義務とかいろいろな重たいものが含まれているのを察して、真っ白のまま、ジュノンはゆっくり目を閉じた。
(カスナ……)
 やさしかった彼の笑顔が浮かび上がる。初めて彼を見た時の、あのきらきらとした笑顔が蘇る。……それが、酷く痛かった。
「……わかったよ」
 ライフガントルはどこまで知っているのだろうか、ジュノンは思う。しかし、例え彼が彼の言う「大きな力」の黒幕がカスナであることを知っていたとしても、そしてそのカスナと自分がほんの一時でも親友の関係にあったと知っていたとしても、それでもライフガントルは動じることはないのだろうな、と思った。
「一つだけ……一つだけ、聞かせて」
 頷きを返したジュノンを見て手を離したライフガントルが、すでにぬるくなった紅茶をすすって片眉を上げた。彼のこういう動作は、了承の合図であると知っていた。
「カ……大きな力って、具体的にどんなことなの? 何が、起きようとしてるの?」
 まっすぐライフガントルの瞳を見て言えば、彼は一瞬たじろいだように身を引いた。かちゃりとカップを机に置いて、大きく見開いた瞳が戻った時には、ライフガントルは静かに声を出していた。
「……浄化……」
「え?」
「世界の浄化だ。お前は、天魔族の間じゃ大天魔が浄化の神として崇められてるのを知ってるか?」
 聞かれた内容が脳内に蓄積された知識に引っ掛かり、ジュノンは瞬時に屋敷の地下にある資料室を思い出した。古くからあるこの屋敷は、以前はずいぶん博識な人が住んでいたのだろう、地下に膨大な蔵書が収められた資料室があるのだ。うとまれ、独りきりだったジュノンは、自然と本を読むことに夢中になっていた。故に、資料室にある本の大半は目を通し終えている。
 記憶にある本の一節を思い浮かべながら、ジュノンはゆっくりと頷いた。
「なら話は早い。天魔の一派が、何故だか知らないが世界の浄化を目論んでるらしいんだ。最も、古くから伝わる“浄化戦争”からみてもわかるとおり、大天魔を召喚したら最後、初代ヒルベストでも現れない限り再び封印するのは難しいだろう。だから」
「だから、召喚を阻止しなきゃいけない?」
「そうだ。もっとも、今できるのは力のあるメディアスを集めることくらいだけどな」
 ライフガントルの言葉を引き継いで続きを言えば、彼は重々しさのかけらも見せずに頷いた。もう、彼のカップの中身は空だ。
「……それ、ほんとに僕が力になれるわけ? てか、なんでライフがそんなこと……」
 口を突いて出た本音に、ライフガントルは立ち上がりながら小さく吹きだした。どうやら、出発する気になったらしい。
「俺が“こんなこと”をするのにも事情があってな。そんでもって、そのためにはお前の力が本当に必要なんだよ」
 だから安心しな、言外に込められた気持ちがなんだかくすぐったくて、ジュノンも思わず噴き出した。先ほどまでのどんよりとした気分がウソのようだ。
(……そうだ、ライフは仲間だ。カスナよりも前からの、それから、多分これからもずっと)
 僕はひとりじゃない、聞かれないように本当に小さな声で呟いて、すると本当にそのように思えてきた。そうだ、ミドラだって、僕を裏切ることはしなかった。僕の世界はカスナだけじゃなかった、ひとりじゃなかったんだ!
 それからジュノンは、用意していた鞄を手に取ると、すでに裏口に向かったライフガントルを向いた。それまで気付かなかったが、彼も彼なりに旅荷物を持っているようだ。最もその量はジュノンの半分くらいしかなかったが。
「行こう! ライフ! “大きな力”とやらを止めに」
 わざと明るい声を出せば、彼はにやりと笑って力強くうなずいた。気がつくと雨はもう止んでいる。開けた扉の向こうに広がる、大きな空が眩しく感じた。
(ああ、でも)
 それでも、どこかひっそりとした気分でジュノンは思う。
(ミドラが死んでも、世界は変わらず回ってくんだ)
 自分は今、このとき見た空の色を一生忘れないだろう、と、ジュノンは強く思う。そして、自分にはミドラと言う大切な人がいたことを、空を見上げるたびに思い出すだろうとも。
「とりあえず、隣町・ダキリアへ向かう。いいな?」
 確認するように聞いてきたライフガントルに頷いた。どこまでも続く空を見て、恨めしく思う。
(天魔一派の黒幕がカスナだと、僕はもう知っている。……だから。だから、心だけは、強くあろう)
 先に出たライフガントルに続くように、ジュノンは力強い一歩を踏み出した。目指すはダキリア。
 レイズンガルドにある小さな駅に停まる小さな汽車の煙だけが、二人の門出を見守っていた。

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