1. oath

 雨が冷たく頬に当たる。
(嘘だ! 絶対に嘘だ!)
 足で地を踏みしめれば沈む。泥がズボンに飛び散って、けれど構わずに走っていた。
 スコールのような大雨は突然振り出した。午前中は良く晴れていたのに。
 森の中を駆け抜けて、腰に差した剣がガチャガチャとゆれる中、ジュノン・ヒルベストは顔面を蒼白にして森を抜けた。
 開けた道は舗装されており、だがそこを歩く人はいない。レイズンガルドと言う名の、小さな村へと続くその道を、先ほどと同じように駆け抜けてひた走る。
 何も考えられなかった。
 考えることを脳が拒絶している。どうしてそんなことになったのか分からなかった。
 混乱する脳内で、つい今しがた目撃したことが、聞いてしまったことが流れ去ってゆく。ようやく孤独から脱せられると思ったのに、ようやく、心許せる友人ができたと思ったのに。
 全てが「彼」がやってきたその瞬間から始まっていたのかと思うと、胃は小さな吐き気を催した。
 そうだ、全ては「彼」が、「カスナ」がやってきたときに始まっていたのだ。あの、朝靄のかかる浜辺から……


 ジュノン・ヒルベストは魔界力のメディアスだった。元来メディアスとは災いをもたらす存在として忌み嫌われており、ジュノンも例外ではなった。故に、彼は人里を避け、村から少し離れたところに位置する名もなき漁村の、さらに奥にある森の端にある屋敷に住んでいた。
 ジュノンが心を許していたのは、幼いころから世話になっている鍛冶屋の老爺……ミドラだけだ。親も兄弟もないジュノンにとって、ミドラは父に等しい存在だった。
 そんな彼らの元へカスナがやってきたのは、今から三ヶ月ほど前のことだ。
 まだ朝もやのかかる早朝の浜辺、海がきらきらと輝いて、幻想的な光景を生み出す時間帯。仕事から帰ったミドラが浜辺を通りかかった時、彼は誰かが倒れているのを見つけた。それが、カスナだった。そして、その日の昼にミドラのもとを訪れたジュノンは、静かに眠るカスナを見て、ミドラを見て、そして、ミドラが彼をどうするのか、理解した。
 目を覚ましたカスナは、酷く怯え、また驚いたような表情をして、消えそうな声で記憶がないといった。どこから来たのか、自分が何者なのか分からないと。分かっているのはカスナという名前と、生活に困らない程度の知識だけ。
 そしてミドラはジュノンの予想通り、カスナを家に置くと言い張った。部屋を与え、食事を与え、役に立ちたいと言った彼に自身の仕事を手伝わせた。ミドラの世話になっていたのはジュノンも同じだったので、そんなわけで二人は次第に打ち解けていくようになる。
 カスナはジュノンにとても良くした。二人は気がつくと親友と呼べる間柄になっていた。
 ジュノンはミドラの次にカスナを信用していたし、カスナも同じだと思っていた。
 しかし、今日、ジュノンは見てしまったのだ。カスナの秘密を。


 村からの依頼で、モンスター退治を終えたジュノンは、休憩をかねて木の幹に寄りかかり昼寝をしていた。
 剣を抱き、いつでも動ける体制で休憩しながら、厄介だったモンスター退治の疲れを癒す。
 そんな時、背後で何かが動いているのにジュノンは気がついた。
 素早く眼を覚まして構えを取りながら、草陰の向こうにいる何者かに警戒しながら気配を消す。

 そこにいたのはカスナだった。

 普段なら漁村でミドラの鍛冶の手伝いをしているはずのカスナが、今日に限って森の、しかも奥深いところにいる。
 それだけで十分怪しいのだが、何か事情があるのかとジュノンは少しだけ警戒を弱め、彼に声をかけようとした。

 新しい気配がそこに生まれなければ。

 何者かがカスナの近くに現れた。素早く身をかがめたジュノンはその姿を確認できはしなかったが、気配が発した声で、それが女性のものだと言うことは理解できた。
「カスナ様」
 カスナは何も言わない。声はそのまま続けた。
「例の鍛冶屋ですが、このような仕事は請け負いたくないといっております」
「で?」
 つまらなさそうな声色で返事をしたのはカスナだった。いつも見ている態度と明らかな違いに、ジュノンは一瞬眼を見開く。
「もしこれ以上勧誘するようなら、全力を持って抵抗するといっておりますが、いかがなさいますか?」
 声の問いかけに、カスナは一瞬沈黙を持ったように思えた。ジュノンはただひたすら気配を消して、自分の存在を悟られないようにする。
「……仕方ないな。あれを完全に精製できるのは彼しかいないというのに……」
「鍛冶屋・ミドラを始末しますか?」
 女の口から自分が良く知る人物の名が出てきたことにも驚いたが、それ以前にその声がミドラ抹殺の意をさしていることに、ジュノンは酷く驚いた。
 声はジュノンなど気づいていないかのように話し続けた。
「大天魔様ご降臨には必ず“彼ら”の技術が必要です。見つけるのは難しいですが、ミドラ以外にいないわけではありません。ですから、役立たずのうえに今後の差し支えになるようならば……私めが……」
 女の声が最後の言葉を発する前に、ジュノンは静かに逃げ出していた。
 雨が降り始める。
 聞こえてきた事実に胸の鼓動が早くなり、緊張で体が上手く動かない中ただ走る。

 そして、物語は冒頭に戻る。
 ジュノンが立ち去ったあの場所で、女の声もすでに消え失せ、盛大に雨が降りしきる中。カスナが静かに一言付け足したのを、ジュノンは知らない。

「時は満ちた。もうお別れの時間だよ、ジュノン……」

 その瞳は何を見るわけでもなく、先の女に告げた命令を思い返しているようでもあった。
――鍛冶屋・ミドラの抹殺と、その身内、ジュノン・ヒルベストの抹殺を命じる……
 そしてカスナは、何を思うでもなく静かに目を閉じた。

 浮かぶのは既に見慣れた彼の者の笑顔か、それともただの暗闇か。


 村へついて、人通りの少ないその中を全速力で駆け抜けて、ジュノンはさらに漁村へと続く道を走っていた。
 海が見え始め、船が出ないようにと必死に押さえている漁師達を無視して、ジュノンは真っ先にミドラの家へ向かった。森からここへ来るまでにずいぶんと時間がかかってしまった、嫌な予感が脳裏をよぎり、鮮明なイメージが浮かび上がる。
 ミドラが殺されて、カスナが不気味に笑うイメージ。
(そんな事はない、そんなはずはない)
 ミドラの家の扉を開ければいつもどおりにミドラが鍛冶をしていて、カスナが不思議そうに自分を見るだけだ、ジュノンは必死にそう思う。まるで、嫌なイメージを取り壊し、本当に望むイメージを頭に貼り付けるかのように。
 ようやくたどり着いた鍛冶場でもあるミドラの家は、見るからにしんとしていて人の気配がしなかった。不安を隠すように、乱暴に扉を開ける。
 途端、薄い闇が視界に飛び込んできた。ランプが消されているようで、薄暗い室内には誰もいない。
(出かけてるのか…?)
 推量ではなく、願望。そうであって欲しいと言う、願い。
 身を翻しながら、ジュノンはありもしない期待を胸に抱いた。
(そうだ、村の漁師達に頼まれて船を押さえる手伝いをしているに違いない。港に行けば、きっとミドラとカスナが懸命に船を押さえている)
 一度開いた扉をもう一度潜って外に出たとき、ジュノンは微かな気配を捉えた。今までミドラの家で感じたことのない気配。知らない人物の気配。しかしつい先ほどまで感じていたような気配に、全身の筋肉がこわばるのを感じた。
 ゆっくりとジュノンは振り向いた。緊張で筋肉が硬直したままだ。
「誰か……いるの……?」
 小声で間抜けなことを聞きながら、ジュノンは室内の暗闇から何かが飛んでくるのを視認した。あわてて避ける。
 ち、という小さな舌打ちと共に投げられたのは、ジュノンが恐れていたもので……そして、どこかでそうなるのではと思っていたものだった。
 濡れた地面に横たわるは、腕を変な方向に曲げていたるところから血を流す、父親とも呼べる存在だった。
 むせ返るような血のにおいが鼻をつくと同時に、一瞬目が離せなくなって、ジュノンは相手を見ずに呟いた。
「お前がやったのか」
 相手は何も言わない。暗闇の中からゆらりと姿を現すだけ。
 外に出てきたのは短髪の細身の女だった。黒い戦闘服を身にまとい、手にしているは短刀。短刀から滴る血が、彼女が返事をするまでもなく答えを表していた。気配で察する。彼女は、先ほどカスナと共にいた女であると。
 女は一つだけ笑った。何も言わない。
「お前が……ミドラを殺したんだな」
 自分でも驚くほど、ジュノンの口からは低くうなるような声が出た。意識が飛びそうなほどに腹が煮えたぎっていて、吐き気と同時に激しい怒り。
 今まで感じたことのない感覚に、ジュノンは全てを任せ始めていた。
「……殺した、殺した、殺したよ? 筋肉の筋を絶ちながら、神経を引っこ抜きながら、骨を粉々にして内臓を取り出しながら、殺した、殺した、殺したよ?」
 女は狂ったように言いながら、ジュノンに歩み寄ってくる。短刀を目の前に突き出して、意識がぶっ飛んだ表情で、静かに話しながら近づいてくる。
「お前を殺せばそれで良いんだ。お前を殺せば、それで私は大丈夫。私は死なない。私は死なない。私は殺されないからだからだから早く死ねよお前」
 何かに怯えるように、何かがあるかのように、女はゆっくりと大きく振りかぶった。短刀を垂直にして、ジュノンの脳天に十分突き刺さる位置で振り下ろす。

 勢いよく振り下ろされた短刀は、だがやはりジュノンに突き刺さることはなかった。

 空を切って獲物をしとめ損ねた女は、突き出た目玉をぐるりと回して振り返る。
「お前、強い、強い、強い?」
「ああ、多分お前よりはな」
 女の問いかけに、嘲笑を浮かべて答える。港から聞こえてくる男達の声が、不思議と雨音にかき消されていた。
 ジュノンは腰に差していた剣に手をかけた。ゆっくりと構えて、女も同様にゆっくりと構えた。
 しばらくの沈黙。
 風が強く吹いて、開け放たれたままだったミドラの家の扉が騒音を出しながら閉まったとき、戦いは始まった。


 女は先ほどまでのゆっくりとした動きはどこへやら、素早い動きで即座にジュノンの懐に入った。
 女の短刀は真っ直ぐにジュノンの額目指して突き出てきた。すんでのところでそれを避け、頬に赤い筋が出来る。
 その動きの一瞬の静止の間にジュノンは素早く間合いを取った。自分が持つ魔界力の力を徐々に解放させていきながら、目の前にいる標的めがけて二、三度斬撃を加える。全て致命傷までは行かなかったが、これでジュノンは女の右手首を切り落とした。
 血があたりに吹き出て、雨に混じって血の雨が降り始めた頃、女は痛みを感じていないように利き手の右手から左手へと短刀を持ち直した。
「お前、殺さなければ。殺さなければ、私、死ぬ。死ぬのは…嫌」
 言葉と同時に、女の瞳に殺気がこもる。
 それはジュノンが抱いている殺意よりも明確で強い殺気。思わず気圧されそうになった。
 ジュノンの中で事の成り行きを見つめていた冷静なジュノンは、静かな怒りを抱きながらあふれ出す。表のジュノンに激しくゆする。換われ、変われ、代われ。
 彼の体がぐらりと揺れて、女が瞬きをした瞬間に…

 同じように、ジュノンの殺気が激しく増す。

 狂気に満ちた瞳で女を見据えながら、ジュノンは一度だけ微笑んだ。
「さよならは言ってあげないよ。せいぜいもがき苦しんで死ね」
 言葉と同時にジュノンは消えた。

 そして次の瞬間……

 心臓から銀色の刃を見せながら、狂気に満ちた女は静かに倒れていった。前のめりに倒れゆく女の体から差し込んだ剣を抜き取り、返り血を浴びながらただひたすら笑う。

 雨が全てを流してくれると思った。

 やがてジュノンは気づく。自分がした無意味な行動に。胸に空いた空虚感に。
 どうでもいい怒りはいつの間にか消え失せた。代わりに新たな怒りが芽生え、ジュノンの体を蝕んでゆく。


 ジュノンは気づいた。
 それは愚かな復讐だったと。

「僕はこの気持ちを忘れてはいけない……ジュノン・ヒルベスト、復讐の相手は僕自身だ」

 誓いのしるしに血のついた剣を振り上げた。自らの手の甲を上げて、十字を刻む。
 一生消えることのないであろう、誓いのしるし。

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