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覚えていてはいけないような、気がした。

 部屋には地下水が流れていた。
入口から続く水のない道と、その脇に流れる水の音。
道は中央にある大理石の床まで続いており、そのほかの空間はほぼ全てが水だった。
円形の部屋には多くの植物が緑の葉を目一杯開いている。美しい花々がケージを迎え入れるように満開に咲き、ケージは思わず顔を緩めた。
「すごい…」
本当にすごい。
そうとしか良い切れなかった。
ケージは今までこんなに美しい部屋を…部屋というよりは庭園というイメージのほうが強いが…見たことがなかった。
育ちが育ちだから、というのもあるかもしれないが、そもそも美しい花々をじっくり眺めることさえ、ケージにとっては初めての経験だったのだ。
幼いころは父親に虐待を受け、病気の母が自分を庇うのをぼんやりと眺め、父親に無理やり重労働をさせられていたのだ。
他の子供達とゆっくり遊ぶことなど…ましてや、自分の住む町を眺め歩くことなど出来やしなかった。

ぼんやりと記憶に残る町の様子は、二、三度、父がいないときに母に連れて行ってもらったときの記憶だけ。

そして、城へと連れて行かれる馬車の窓から見た流れ行く景色だけ。

「ケージさん?」
ルーナがぼんやりと部屋を見つめるケージに一声かけた。
はっとわれに返るケージが、ルーナがそばにいたことを思い出す。
「っ…すみません。自分はこれほど美しい部屋を見たことがありませんでしたので」
ケージはゆっくりとお辞儀した。
その行動を予測していたかのように、ルーナは微笑みながら顔を上げて、という。
「たったひとり」
「え?」
顔を上げたケージの目に映ったのは、遠くを見つめ、かつ自分を愛しそうに見つめるルーナの瞳。
「たったひとりで、男だけの軍隊で…泣くことも出来ず、叫ぶことも出来ず、逃げ出すことも出来ず…。よく、よく生きておられました」
ルーナがそっとケージの頭をなでる。
汚れた灰色の髪が、微かに ゆれる。
「ルーナ…様?」
彼が何を言いたいのか。
彼が何をしたいのか。
彼が何を思っているのか。
彼が何を感じているのか。

それを知りたいようで、

知りたくはない。



ケージは戸惑った声で彼を呼んだ。ふわりと抱きしめられる。
「本当に…生きていてくれてよかった…」
ルーナはケージの髪の中に顔をうずめながら、混乱する彼女に一言呟くように言った。
どうしたらよいのか分からず、ケージはお情け程度に彼を抱きしめ返した。
「貴方は知らないでしょう。貴方は覚えていないでしょう。……ですが私は………」
一度言葉を区切る。ルーナの真意を読み取ろうと、ケージは密かに横に目をやった。
静かな呼吸が聞こえる。
暖かな鼓動。



なんだか、落ち着く、気が、する。





懐かしい気がした。
感じたことがある気がした。
寂しかった気がした。
嬉しかった気がした。
思い出した気がした。
忘れてしまった気がした。



覚えていてはいけないような、気がした。




ルーナが再び口を開く。
ケージは静かに、彼が紡ぐであろう次の言葉に耳を傾けた。



「私は、貴方が…貴方がいたから、生きてこられた」






咲き乱れる花びらが、一枚だけ。
ひらりひらりと舞うように、水面へと引き寄せられる。