その日、カスナ・P・プロフェッタは酷く憂鬱だった。と言っても、今日報告を受けた部下たちの仕事がおもわしくなかったとか、食事に大嫌いなシイタケが入っていたとか、そう言うことがあったわけではない。
それは自分に近い位置の部下の、些細な一言が原因だった。
「主の髪は綺麗ですね」
そう言ったのは、カスナが統べる天魔一派の巨大な組織の中でも、カスナ直属のメディアス部隊の一人だった。淡い金髪を持つ彼は、ひょうひょうとした性格で、カスナの部下となった今も、カスナがよくわからない言動をすることが多い。
真ん中で分けられた長い前髪の下からのぞく細いキツネ目が、じっと自分を見据えたまま、彼は続けた。
「天魔でもなかなか見ない淡い桃色の髪。サラサラだし、伸ばそうとは思わないんですか?」
部下の中で(それは直属の部下もそうでないものたちも含めてだが――)こんな風にカスナに声をかけるのは彼くらいだった。大体のヒトが、カスナを末恐ろしいものか、神であるかのように見つめる。
もしくはあの姉弟のように、酷い憎悪に満ちた瞳か。
脳内で浮かぶのは漆黒の美しい髪をなびかせる恐ろしいほど整った顔つきの少女と少年。彼らはここにきてから、にこりとも笑わなくなった。もっとも、そう仕向けたのはカスナ自身なのだけれども。
ぼうっとしたカスナを不思議そうに男は見つめた。見られていることに気付き、カスナははっと我に返る。
「……伸ばしたら何かいいことがあるとでも?」
「そうですね〜、俺が三つ編みにして上げますよ」
にこりと、綺麗な笑みを作った男に殺意が湧いた。言われた言葉に瞬間、彼の姿が浮かんだ。ああ、思い出したくないのに!
「……気分、悪い。部屋戻る。……後で執務室」
そこまで言うと彼はぽかんと口を開いて、なぜですか、と、地の訛りの強い発音で叫んだ。悲鳴に近い叫びを背に聞きながら、カスナはもう歩き出していた。
カスナが組織を立ち上げ、支配し、統べる上で最も気を配ったことは一つ。それは「恐怖」と「崇拝」。恐怖と崇拝は隣同士にある、とは、カスナの持論だ。恐怖によって人々は縋るものを求める。それは、自身に降りかかるものであっても、他人に降りかかるものであっても、どちらも同じだ。その他人と言うのが自分たちが「悪」と決めつけているものなら、なおさら。人々は「悪」を倒した存在として、簡単に自分を崇めたたえる。
カスナが敵対する人間、それも天魔の汚点とも言うべきメディアスと手を組んでいるのは、その点が大きかった。もちろん自らが遂行する「大天魔復活」の儀式に彼らは必要不可欠な存在だったが、そのほかの大勢の部下たち、自分を崇めたたえる大衆向けへはそこまでの機密情報を教える必要はない。彼らには、「危険分子であるメディアスの監視とコントロール」を目的としていると教えている。そしてそのためには力が必要だった。メディアスに向けての、彼らが憎悪するほどの強い力が。……幸いにしてカスナは生まれ持ってそれを得ていたから、彼らを恐怖、または憎悪で支配し、体に痛みを覚えさせることで自身に服従させることは苦ではなかった。自分の目指す崇高なる儀式のためにはそのような汚い仕事も必要だと思っていたし、どちらにせよ彼らには人柱となってもらうのだ、今から痛めつけようが、同じことだと割り切った。
だから、カスナは些細なことで彼らに「罰」を与える。彼らの力は必要だから、死に至らない程度の強い力で。自分の行動の邪魔をしたらどうなるか、自分の気分を下降させたらどうなるか、自分の気に障ることをしたらどうなるか、身をもって教えなければならなかった。
最も、その行動のおかげでカスナに普段から声をかけようというものはほとんどいない。さっきの男を除いて。彼は何かにつけてカスナに声をかけるし、カスナ相手に冗談も言う。一度は自分を友人か何かと勘違いしているんじゃないか、と疑ったが、彼を部下にしてもう長い、彼が単にどこか抜けている人物なだけだとわかった。
そんなわけで、彼がカスナの「罰」を受ける割合がダントツで多いのは、決してカスナのせいではない。自分から離れていこうとしない、彼が悪いのだ、思ってカスナは自室の扉を開けた。
「ああ、くそっ」
とりとめもないことを考えて、それこそ普段なら考えないような罰を与える存在への「いいわけ」じみたことまで考えて、それでも離れていかない「彼」の残像。頭痛すら引き起こす記憶は、今より少しだけ前の記憶。カスナ自らが三か月程度の長期任務に赴いた時の記憶。
(なんだって、こんな……)
カスナは酷くうろたえていた。十数年前、暗い書斎で世界の真実を知り、組織を立ち上げた時に誓ったはずだった。自分は孤独な支配者であろうと。友情はヒトを、天魔をダメにする。甘ったるくて面倒くさい、もともとカスナは人づきあいがうまい方ではなかった。何かに執着したと言ったら例の研究くらいで、「誰か」に執着することなんてなかったのに。
(僕は……そんな……)
自分の感情が理解できなかった。けれど脳裏に、閉じた瞼の裏に、彼が……ジュノン・ヒルベストがこびりついて離れない。今までだって彼を思い出すときはあったけれど、それでも首を一降りすれば振り払える程度のものだった。それがなんだ、部下の一人に“彼と同じこと”を言われたくらいで。
(その言葉を他人から聞きたくなかったなんて……)
カスナは部屋の隅にある深いワインレッドのソファにゆっくりと体を沈めた。今はとにかく、休みたい。瞼を閉じれば浮かぶのはやはり忌々しいはずの彼の顔。あの頃の記憶がどこか楽しかった、なんて、
(嘘に決まってる……)
けれど無意識的に、カスナはゆっくりと過去を思い出していた。
そう、あれは、自分が記憶喪失のふりをして、彼の養父の元へ転がり込んだときのこと……――
「おはようっ」
明るい声が聞こえた。それで、目が覚めた。
気絶したふりをして、どうやら本当に意識を失ってしまったらしい。瞬間的に思ったのはそれだけ。そしてすぐに、やってきた気配がどこか妙なものであること、その気配が自分の今回の「ターゲット」であることに気がついた。
「あ、れ……?」
目を開けてぼんやりと気配の方を向くと、声の主はひどく驚いた様子で立ちすくんでいた。まず見えたのは、片方だけやけに裾の短い独特のパンツ、腰から下げられた細みの剣。それから徐々に視線を上にあげて、彼の大きな漆黒の瞳と出会った。
「あ……だ、誰?」
彼は目が合うと少し緊張した面持ちで身構えた。カスナはそれを気にせずに、瞳のさらに上を見た。瞳とおなじ漆黒の、遠目から見てもサラサラであるとわかる綺麗な髪だった。肩口で揃えられたその髪を眺めていると、どこか、自分の部下を思い出す。あの、冷酷で憎悪に満ちた瞳をもつ姉弟の。
「あ……ここ、は?」
その髪を半ば見惚れるように眺めていると、彼もまた自分をじっと見つめていることに気づいて、恐る恐る声を出した。それは本心からのものではなかったが、一応“そう言う設定”でここにきている以上、不安げな声を出すのが一番だった。
「ここは……ミドラの家だよ」
彼はぼんやりとした表情のまま自分を見つめていた。ゆっくりと起き上がり、彼を……恐らくジュノン・ヒルベストであろう人物をもう一度、まじまじと眺めた。
ジュノン・ヒルベストは想像と違って、まだ幼さの残るいで立ちをしていた。一応彼の血縁が自分の部下にいるが、彼女は年齢と違って酷く大人びた装いをしている。だから、一族そろってそう言う雰囲気を持っているのだと思っていた。それなのに、目の前のジュノン・ヒルベストは大きな目をさらに大きくさせて、だらしなく口を少しだけ開けて、自分のことを疑いもせずに眺めている。ただ一つ、どうやら一族の遺伝らしいと思ったのは、彼の黒い瞳と黒い髪、そして恐ろしいほど整ったその顔だった。酷く中性的で、見ようによっては女性的なその顔は、すっとした目鼻立ちに大きな目、と、驚くほど整っている。その女っぽい顔に、胸元で結ばれた赤いリボンがよく似合っていた。
「おお、ジュノン、来てたのか」
がちゃ、と扉の開く音がして、ジュノン・ヒルベストの背後から大柄な男……もう老人と言ってもいいだろう年齢の男が入ってくる。彼の片手には野菜の入った籠が握られており、どうやら食料を調達しに行っていたのだとわかる。
「あ、ミドラ。ねえ、この人……誰?」
不安げにジュノンが尋ねる。カスナも困ったような眼で彼……ミドラと言う名らしい、ジュノン・ヒルベストの養父を見た。
「起きたのか。具合はどうだ? こいつは、そこの浜辺で倒れてたんだ。今日の早朝だな、朝もやが濃く出てた。ぐったりしてたもんだから、家に連れてきた」
ミドラはこともなげに言うと、野菜を抱えて台所のある方へ消えてしまった。ジュノンはぽかんとした顔のまま、おずおずと彼に「仕事は?」と尋ねる。どういうことか一瞬考えて、カスナはすぐに思い至った。どうやら自分は、あのまま昼まで眠っていてしまったらしい。
「そいつが寝てる間に少しなー! 今日は仕事も少ねえから、特に支障はない」
ミドラが大声で返すのと同時に、ジュノンはカスナを恐る恐る見た。最初と変わらぬその怯えた態度に、カスナは苛々とする感情を必死で抑えた。僕はまだ、何もやってないのに!
「あの……どうも、お世話になっていたようで……でも、あの……」
カスナはできるだけ怯えているように見えるように、震える声を出した。最もその震えは本当の怯えからではなく、どちらかと言うと苛々して彼を殴りつけたくなる感情を抑えての震えだったが。
「あ、う、うん」
ジュノンは突然声を発したカスナにびくりと体を揺らして、何を言われるのか、と身構える。そんな様子を疑問に思った。思ったけれど、カスナはそれについては言及しなかった。今すべきことは、彼らに自分の状況を伝えることだ。
「言い……辛いんですが……その、僕」
ゆっくりとした口調で言うと、こちらの様子が気になったのか、ミドラがひょこりと顔を出した。台所の方からおいしそうなスープの匂いがする。
「どうしてあそこにいたのか……何も……」
覚えていないんです。
最後の方は消え入りそうな声色だった。我ながら自身の演技力に拍手を送りたい、思って、カスナは震えながらうつむいた。傍でジュノンが大きく息をのんで、ミドラが渋い表情を作ったのが雰囲気でわかった。
「……名前はわかるか」
ミドラの低い声に、思わず体をびくりと震わせて、ゆっくりとした口調で答える。
「たぶん、カス、ナ……」
「そうか」
そう言うと、彼はふたたび台所へと姿を消した。ジュノンは突っ立ったままで、一行に近づこうとしてこない。迷っているのだろう、それがわかって、カスナは自分はどうあっても彼を好きにはならないだろう、思って、早くも今回の“任務”を投げ出したくなった。
「……どこか、痛いところとかない?」
しかし、彼の口から出たのは意外な言葉だった。意を決したようにカスナにゆっくりと近づくと、ジュノンはカスナの目線に合わせるように屈んで、ふわりと、本当に優しく微笑んだのだ。
「僕、ジュノン。どの程度の記憶まで残ってるか、わかるかな? 僕、君の力になりたい」
ね? と、彼はそう言って小首をかしげた。そのことに、衝撃を受けた。
自分にこんな風な表情をするヒトは、こうやって笑いかけるヒトは、今まで一人だっていなかった。母親や父親でさえ、天魔の中でも“異端”だった自分から目を逸らした。決して、自分を見ようとはしなかった。それなのに。
(敵、の、はずなのに)
その彼が、まっすぐ自分を見ていた。自分の部下たちのような、媚びへつらうような偽りの笑みではなく、本当の、自然の笑みで自分に笑いかけていた。
「……あり、がとう」
その言葉が演技のものか本心のものか、もはやわからなくなっていることに、その時のカスナは気づかなかった。
カスナの目論見通り、ミドラと言う人物は非常に扱いやすかった。人情に厚く義理堅い性格のため、“哀れだが心やさしい好青年”を演じていればすぐに自分に心を許した。彼の小さな家の屋根裏を掃除して部屋として分け与え、食事を与え、わざと大げさに礼を言って「少しでも御恩を返したいんです」と訴えれば彼の仕事の手伝いまでさせてくれる。カスナ自身の“任務”の一つは、かなり良いスタートを切っていた。
「カスナっ今日もミドラの手伝い?」
しかしカスナの悩みの種は、家こそ別だがミドラを養父として慕い、毎日訪れてくる彼、ジュノン・ヒルベストだった。
初めて姿を見た時のような苛々や嫌悪感はもうほとんど持っておらず、カスナとジュノンはあれから、徐々に互いの距離を縮めていた。ジュノンはまだ自分がメディアスであることと、彼のファミリーネームをカスナに申し出ていないが、それも時間の問題だろう。会ったばかりの時と比べて、彼が明らかに自分に気を許し始めているのがカスナもわかった。そしてこの関係は、“任務”自体から見れば非常に良好な状態だった。
問題なのは、カスナの気持ちだ。
どういうわけか、カスナは割と本心で彼を気に入ってしまったようだった。幼いころから一人で暮らし、村人から今なお迫害され続けているというのに、世界の暗い所なんて何も知らない。知っているのかもしれないが、あえて目をそらしている。純真無垢なままでいようとする。穏やかな笑みを絶やさないでいようとする。普段の、今までの自分なら、そう言う彼は嫌悪すべき対象に当たるし、実際、最初は嫌悪した。それなのにどうしてか、あの時彼の酷く穏やかでふわりとした微笑みを見てから、全てがどうでもよくなってしまっていた。彼のそんな所さえ、許せる自分になってしまった。
そのことに気づいたのは、カスナがミドラの家に転がり込んで二日目の時だ。昨日の頬笑みはどこへ行ったのか、変わらず少し自分と距離を置く彼を見ても、自然、苛々や嫌悪感は全く湧きあがらなかった。カスナにとってそんなことは初めてで、どうしてか彼に目が行く自分が不思議でならなかった。そもそも、そんな自分にすら腹が立たないなんて!
(まるで恋のようだな)
思って、気づかれないように自嘲する。しかしカスナはきちんと理解していた。これは、恋と言う感情とは、違う。
こんな自分も悪くないかもしれない、思い始めたのは最近だ。しかし、それでは“任務”や目的に支障が生じるのは目に見えていた。いずれ彼とは決別しなくてはならない。うまくミドラを取り込めず、ミドラを始末する形になってしまった時。その主犯が自分であると、ジュノンはなんとなく知る気がした。そしてそうなってしまえば、彼は完全に自分の敵となるのだろう。
「ジュノンは今日は何の仕事? 昨日は簡単な仕事であまりもうからなかった、って言ってたけど」
複雑な気持ちをごまかすようにくすくす笑って言うと、彼は肩をすくめた。どうやら今日は成果なし、らしい。
「今日は依頼はなし。今ね、村に腕利きの傭兵さんが来てるんだって。その人すごいお金にうるさいらしいんだけど、僕にお金出すよりは、って皆そっちに頼んじゃうんだ」
彼は残念そうに言った。彼の営む「万屋」――営むと言っても村人たちから安い金をもらい、くだらない雑用から危険な仕事まで引き受けるという、酷いものだが――は、普段はそこそこ繁盛している。それこそ、安い金で何でもしてくれるのだ。村人たちは彼のプライドを踏みにじるような仕事を持って来ては、「見せ物料」くらいの感覚で金を置いていく。時たまモンスター退治や危険な野生動物駆除などの仕事も入ってくるが、値段はほとんど変わらない。村人たちの中には、仕事のさなかで彼が死んでしまっても構わないから、わざとそう言う仕事を持ってくる輩もいる。
そんな酷い仕事でも、彼、ジュノンにとっては生活費を稼ぐ唯一の仕事だった。
だからジュノンは、村人たちがその傭兵とやらにわざと高い金を出して仕事を依頼している理由を正確に理解していた。つまり、単なる嫌がらせだと。
「……僕、ミドラさんやジュノンは好きだけど、この村の人たちは好きになれそうにないな」
ジュノンの残念そうな顔を見て、自然、カスナからはそんな言葉が漏れた。
「そう? そう言ってくれてうれしい。でも、僕はカスナに言ってないことがあるんだ……言ったら、カスナも僕を嫌いになっちゃうんじゃないかと思って……だから……」
ひどく不安げにジュノンが言った言葉は、ほとんど聞き取れないくらいの小さな声だった。今、このタイミングで“その時”が訪れたことにカスナはひどく驚いた。もう少し時間がかかると思っていたのだ。それだけ、カスナの言葉はジュノンの心を溶かしていたということだろうか?
「……秘密は、誰にでもあるものだよ。それを僕に言ってくれないのは少し寂しいけど、でも、君が言いたくないのなら無理に言わなくてもいいと思うよ。君がつらい思いをしてまで言う言葉を、僕はどちらかと言うと聞きたくない」
にこりと笑って言うと、彼は驚いたように目を見開いた。そして一瞬何事かためらって、ふと、ミドラの方を向いた。
剣の精製をしていたはずのミドラは、作業をいったん止めてカスナとジュノンの様子をじっと見守っていた。ゆっくりと、ミドラが頷く。ジュノンは意を決したように、カスナの手を取った。
「やっぱり、話さなくちゃダメだと思う。カスナ、一緒に来てくれる?」
ああ、来た。
瞬間的にそう思って、カスナはゆっくり瞼を閉じた。少しだけ間を開けて、ジュノンが見守る中、重々しく頷いた。
ジュノンに連れてこられたのは彼の屋敷だった。
カスナはそれまで、ミドラの家と村とを行き来する程度で、ジュノンがどこからやってきているのか知らなかった。というのも、ヒルベスト家の別荘だけあって、その周辺に何らかの力が作動しているらしく、探そうと思ってもうまく探せないのだ。レイズンガルドに来る前に下調べとして何人かの部下を放ったが、彼らがジュノンの住む屋敷に辿りつけることはなかった。
「ここね、僕が住んでいる家なんだ」
彼は、“僕の家”とは言わなかった。
ジュノンの指した屋敷は、想像以上に大きなものだった。森の中にポツンとある巨大な屋敷。森全体が庭である、と言うかのように、その屋敷の前には普通あるはずの門はなく、玄関の少し前から飛び石が来客者を誘うように連なっていた。レンガ造りのその屋敷は見る限り三階建てで、しかもワンフロアの天井がやけに高い。玄関を中心にシンメトリーに作られた屋敷の窓は大きなものばかりで、けれどそのほとんどのカーテンが閉められていることに、カスナは思わず顔をしかめた。彼が使っているのは多分、自室と、生活するために必要な部屋だけなのだろう。
「入って」
言って、彼は重厚な扉を開けた。鍵は彼の中にあるヒルベストの血か、三界力かわからなかったが、扉を開ける前、ジュノンはその横に取り付けられた平べったいつるつるとした石に手をあてていた。血を一滴も流さなかったから、多分、三界力によってこの家は守られているのだろう。
「ごめんね、何もなくて」
屋敷に入ってすぐ目についたのは、大きなシャンデリアだった。しかしその上の方はほこりをかぶっていて、広すぎる屋敷をジュノンが十分に掃除しきれていないのだと悟る。揺らめくシャンデリアには、昼間だからまだ光がついていない。玄関ホールと思しきその場所は、ジュノンの言うとおり、シャンデリア以外のものが全くなかった。
「調度品とか、本当はあったんだけど。生活が苦しくて、村に来た業者さんに全部売っちゃったんだ」
彼は困ったように言って、肩をすくめた。こっち、案内されて進んだのは右手の扉。あけると少し長めの廊下があって(もちろんここにも何もなかった。本当は敷かれているであろう絨毯もない)、それから豪華な造りの扉に辿り着く。
扉の前で、彼は一瞬ためらったようだった。取っ手をかけようと手を伸ばし、ぴくりと震えて動きを止める。じっと見つめていると、しかしそれでも、彼は取っ手を手に取った。
案内された部屋には、壁一面に直に描かれた巨大な壁画と、その前に置かれた真っ黒な椅子が一つだけ。
正方形のやや大きめな部屋で、その光景は異様だ。椅子の正面の壁に描かれているのは誰かの肖像と古代文字。カスナはその文字を見た瞬間、それがはるか昔、大天魔と人間が戦った、“最初の”浄化戦争のことだと悟った。もっとも、“二度目”を起こそうとしているのは自分なのだけれど。ぼんやりと思って、カスナは不意に、その隣に描かれている人物が初代ヒルベストその人なのだと悟った。彼を知る人物がこの壁画を描いたのだとしたら、この屋敷はどれくらい昔から建っているのだろう? それも、きちんと人が住める程度の機能をもったまま。
「この絵はね」
壁画をじっと見つめていたジュノンが、ふと声を出した。
「僕のご先祖様の絵なんだって」
そう言う彼の眼はどこか冷めている。いや、その眼には確かに憎しみが残っていた。カスナは初めて見るジュノンの表情に、思わずひゅ、と息を鳴らした。
「僕のご先祖様。初代ヒルベスト」
彼の告白はそれだけで、酷くあっさりしていた。少し後ろに控えていた自分を振り返ったとき、ジュノンの顔から憎しみはもう消えていた。「驚いた?」と笑って言う彼の笑顔は酷く切なさを帯びていたが、カスナは気づく。その笑顔も、最初に見た笑顔も、同等のものだということに。
「ご先祖様は歴史書とかにいっぱいでてくるよね。天魔からメディアスの元となる力をもらったんだって。……だから、僕も、メディアスなんだ」
まるでそれが悪いことであるかのように、彼は言った。酷く、穏やかな声だった。
ジュノンにとってこの告白がどれだけ意味のある行為なのか、それは人の心に疎いカスナでさえ理解していた。彼にとってこの告白は決断なのだ。そしてこの告白をされて、その言葉を言われて、初めて彼の中の壁が取り払われたことになる。そしてカスナは、それを望んでいた。
けれどどうだろう、気づいたら意識とは反対に体は動いていた。脳内に響き渡る警報。突然の自分の行動に、ジュノンは驚いたように息をのんだ。
抱きしめていた。なぜそうしたのかわからない。ただ、その笑顔を見ていたくなかった。
「……大丈夫だよ」
囁いた声は今にも泣きそうなほど、震えていた。
どうしてそう囁いたのかわからない。自分は離れていかないと、そう彼に示したかったのか。彼がメディアスと言うだけでどんなに辛い迫害を受けてきたのか、それは彼の態度でわかる。最初に彼がなかなか自分に近づかなかったのだって、そうして培われた恐怖心からだったのだ。……彼にとっては、あの時近づいて微笑みを投げかけることだって、今の告白と同じくらい強い意志が必要だったに違いない。そう、カスナは、今ならきちんと理解できた。
「……カスナの」
驚いたままだったジュノンは、強く力を込めて抱きしめた自分の背に恐る恐る腕をまわして、泣きそうな声で囁いた自分を心配してか、ゆっくりと背中をさすった。
「カスナの髪は、綺麗だね」
ゆっくりと彼が微笑んだのがわかる。先ほどの酷く切ない、はかなく消えてしまいそうな笑みと同等の、けれど違う頬笑みで。
「伸ばせばいいのに」
微笑んだまま言っただろう彼の声は震えていた。泣いてるのだろうか? ここに来るまでの自分なら絶対にこんなことはしなかっただろうな、思いながら、カスナは自分も泣きそうなのを必死でこらえた。ゆっくりと、自分もジュノンの背をさする。
「伸ばしたら、いいことある?」
消え入りそうな声で問えば、彼はくすりと笑った。カスナの髪に顔をうずめて、泣いているのを悟られないようにしているのか。答えた声は完全に泣いていた。
「僕が、三つ編みにしてあげる」
だから、カスナはそれに気付かなかったふりをして、くすりと笑った。
「じゃあ、伸ばすのも悪くないかもね」
正直に言うと、ジュノンの告白を聞いてから、カスナは自分に違和感を感じていた。今ジュノンやミドラとすごしている時間が本物で、組織にいた頃の自分は偽物なんじゃないかと、そう、何度も思った。けれど“別れの時”はどんどん迫っていた。
(楽しい任務になるはず、なかったんだけど)
どこで狂ってしまったんだろう? 問いかけても帰ってくる答えはない。それでも任務は任務、ミドラの仕事を手伝いながら、カスナはきちんと自身の仕事をこなしていたし、部下たちに指示も出していた。しかし最初の目論見と違って、ミドラのガードは意外と硬い。外部からの接触がダメなら内部からの接触はどうかと、こんなまどろっこしいやり方で彼の説得に当たるはめになったが、カスナがさりげなく「宝剣」の話題を出しても、ミドラはするりと話をそらしてしまう。
そろそろミドラが自分を疑い始めていると、カスナは実感していた。別れの時は近いんだ。
だから、別れが来ないように外部の強請りに屈してくれることを願っていたのかもしれない。ただ、それもかなわなかった。
いつも行う時間帯、場所ではなく、あの時間、あの森で連絡を受けたのは、本当は彼に知ってもらいたかったからなのかもしれない。
カスナはジュノンがその日どこで仕事に当たるか知っていた。なぜならジュノン自身がその前日に、翌日ようやく危険だけれど大きな仕事が入って、報酬も今までのよりうんと良い、と話していたからだ。カスナはできれば気付かないで去ってほしいと思う反面、さっさと気づいて自分を憎んでほしい、とも思った。
あの、ヒルベストの肖像に向けたような眼で。
狂っている、自分でそう思う。自分はジュノンに会って、どこか狂ってしまった。狂ったものは元に戻さなければならない。正しく矯正、しなければならない。ミドラを殺せば彼は憎しみに支配されるだろう。自分を追い詰めようとするだろう。
ふと、カスナは思った。彼に、自分の為そうとしていることを止めてほしいと。
自分が行おうとしていることは、人柱はもちろん、天魔も人間も悪魔も、すべてのヒトを死に至らしめる行為だ。そうなってしまえば、ジュノンも死んでしまうだろう。だから。
(僕に殺されるくらいなら、僕を殺してみなよ……ジュノン)
止めてほしいと思った。ジュノンを間接的にでも殺そうとしている自分を。そんなこと今まで一度も考えなかったのに。
自分と部下の女の会話をジュノンが聞いていたのは知っていた。ジュノンの足よりも、天魔である部下の足の方が早い。ジュノンが駆け付けるまでもなく、ミドラは殺されるだろう。自分の命によって。
「時は満ちた。もうお別れの時間だよ、ジュノン……」
ふと呟いたのは“狂ってしまった自分”への別れの言葉か、それともジュノンその人へ向けてのものか……カスナは今もわからない。
ただあの時、最後に自分が告げたジュノンの暗殺の命は、多分、彼に死んでほしくないのと同じくらい強い気持ちで、彼にさっさと死んでほしかったからだと思った。それが無理だとわかっていながら、強く。だって彼は、
こんなに苦しくなる相手は、僕には必要ないんだ。
今までの記憶を封じよう、カスナは決意する。“狂った自分”なんていらない。自分に必要なのは、孤独と、支配と、正常であることだけ。
ばいばい、ジュノン。本当にお別れだね。次に会う時は……――
確かにあの時、カスナはそれまでの自分を捨てたはずだった。けれどたった一言、同じ言葉を言われただけでぐらついた。
「……まだまだだね、僕も」
呟きは部屋の中でむなしくこだまする。でも確かに、思い出そうとすれば今でも鮮明に思い出せるのだ。
彼の屋敷の異様な部屋の空気を。大きな壁画を。それを見つめる彼の瞳を。……抱きしめた彼の確かなぬくもりを。震えていた彼の声を。
自分がジュノンに何を求めていたのか、結局カスナは知らない。けれどやはり、以前も思ったとおり、この感情は「恋」とは違うと知っていた。
(だってこんなにどろどろしてて、死んでほしいのに生きててほしいなんて……)
「まったく、矛盾してるね」
続きは自嘲気味に声に出た。乾いた笑いを口に出すと、なんとなく、答えがわかる気がした。
あの時の憎しみに満ちた彼の瞳。あの瞳は、何かに執着したときに見せるそれと同じだった。多分、それに、いつもの癇癪を起しただけ。
そう、多分、これはきっと。
(あの瞳を、自分に向けてほしいと思った……ただの、子供の独占欲だ)
恐怖じゃ彼は自分に屈しない。三か月彼と過ごしてわかったこと。
だって彼は本当の恐怖がなんであるかを知っている。それを、ミドラに出会うまでずっと体験し続けてきたから。多分、己よりも知っている。
(――孤独)
本当の恐怖は、誰も自分を見てくれなくなること。
自分が、透明になってしまうこと。
だから彼は、肉体的な恐怖には多分、屈しないだろう。彼女の……彼の血縁である、彼女と同じように、精神的な恐怖を与えなければ。
でもそれは僕には無理だ、考えた瞬間否定の言葉が浮かび上がって、今度こそカスナは本当に笑いだした。自分で自分の考えを否定する、その動作がバカらしい。そして、その理由もバカらしかった。
(あの瞳と同じくらい、いや、それ以上、僕はあの笑顔に執着してたなんて!)
できればもう一度見たかったな、と、カスナは今になって思った。記憶の中でほほ笑む彼の笑顔は変わらず儚げで、しかし凛とした強さを持っていた。ふわりと、空気に溶け込んでしまいそうな、笑み。
でもそれがわかったからと言って、手を引く気はさらさらない。カスナは自分の行いが正しいもの(もちろん、すべてそうとは言わないが、最終的に訪れるだろう結果を考えると、正当化されていいはず)だと思っているし、いまさら方針を捻じ曲げることもしない。
「さあ、彼はどんな死に方をするんだろう?」
願わくはその時を自分の目で見れますように、なんて、柄にもなく呟いてみたりして。きっとその時彼は酷く穏やかな顔をして、例の儚くふわりとした笑みを浮かべながら死んでいくのだろうと、そう、思った。
そしてそれは真実のような気がした。