私の祖母はとても可愛らしい人だった。少女のような笑みでくるくると表情を変え、いつも楽しげに微笑んでいる。子供っぽい性格の人で、悪戯や散歩が大好き、特に散りかけの桜を見に行くのが好きだった。
私は昔から祖母っ子だった。祖母の温かい空気に包まれて、一緒に散ってゆく桜を見るのはとても気持ちよく、私にとって祖母は親友のような存在だった。彼女と一緒につまみ食いをしたり、近所の柿を盗んで食べたり。悪戯と散歩をする祖母の顔は、本当に生き生きとしていた。
彼女と私は本当に仲が良かったから、私達には合図があった。二人だけの秘密の合図。互いの後ろ髪を少しつかんで引っ張って、頬と頬をそっと重ねて小さなハグをする。合図を始めるのはいつも彼女の方からで、私が彼女の家にやってきたとき、悪戯に成功したとき、私が家に帰る時に、祖母はやさしく合図を送った。彼女と別れるのはひどく悲しいことだったが、それでも、その合図のおかげで私は気分よく帰ることができた。その合図は、私と彼女の絆だった。
病院の個室で見た祖母の顔は、若干やつれて見えた。三か月ほど前に癌宣告をされ、症状が酷いためにすぐさま入院を余儀なくされた祖母は、窮屈な病室で日がな一日を過ごしていた。窓の外を眺めながら、誰かが来るのをじっと待っていたのだろう。入院から三ヵ月後、ようやく仕事の合間を縫ってきた私の顔を見て、彼女は小さな声で「待ちくたびれたわ」とぼやいていた。
「ねえ、ここの病院の桜の木、なっちゃんと見に行った桜の木に似ていない?」
リンゴの皮をむく私のそばで、窓を覗き込みながら祖母は言った。祖母の言った桜の木とは、病院の中庭の中心にある木のことで、詳しくは知らないがかなりの老樹のようだった。太い幹は私が両手を広げても足りず、太い根は地面に力強く這っている。私はまだ見たことがないが、この木が満開の桜を咲かせたら、とても美しいだろうことは一目で見てとれた。
「ああ、確かにそうかもね。ウサギ野原の桜でしょ?」
ウサギ野原、とは、祖母の家の裏山を抜けたところにある野原で、山奥のさらに向こうにあるため人っ気がほとんどない。祖母と私はよくこの野原に遊びに来ていた。正式な名前は知らないが、祖母が幼いころにウサギが集会を開いているのを見たということから、私たちは「ウサギ野原」と呼んでいた。
「そう。ウサギもそろそろ集会の季節ね」
祖母は楽しげに微笑みを浮かべると、何かを思いついたように少しだけ眉を寄せた。これは祖母の癖だった。悪戯を思いつく時、考え事をしている時、祖母は必ず眉を寄せた。少しだけ眉間にしわが入って、けれどそのしわが定着したことは一度もない。つるつるとした祖母の額に二、三本のしわが彫られるのを私はいつもどきりとして見ていたのだが、それが彼女の癖なのだと知るとやがてしわが楽しみになった。今日は何を考えているんだろう、何をやらせてくれるんだろう。祖母のしわはドキドキでいっぱいだった。
「ねえ、なっちゃん。奈津。ちょっとお願い、聞いてくれない?」
やがて思考を終えた祖母が、私のむいたリンゴを受け取りながら声をひそめてそう言った。悪戯の時間だ、何年も祖母と悪戯をしていなかったが、瞬時に私はそう思った。例えそれまでなかなか会っていなかったとして、祖母と私の繋がりは確かに存在していた。
「なあに? おばあちゃん」
楽しい気持ちを抑えるように、できるだけ平静を装って答えると、彼女はにやりと不敵な笑みを浮かべた。楽しげな表情。
「今晩、夜の桜を見に行こうか」
祖母の言葉はそれだけだった。今日は満月。夜桜には最適の天気だが、今は初秋。桜など咲いていない。不思議に思った私が首をひねると、彼女は柔らかく微笑んで指先だけで私を呼んだ。顔を近づけると、素早く彼女の右手が私の後ろ髪をつかむ。悪戯の、合図。
それは久しぶりの合図だった。互いの後ろ髪を少しだけ引っ張って、頬と頬をそっと触れさせ小さなハグ。病を患った祖母の体は、記憶のものよりずいぶん痩せこけたように感じた。それとも、大人になってしまった私の体格が変化したからだろうか。
ハグを終えると彼女は何事もなかったように微笑んで、手に持ったままのリンゴを食べた。可愛くウサギの形に切ったリンゴを見て、くすくすと小さな笑い声をあげる。
「ウサギ野原は、ウサギの野原。今夜はウサギの集会だ」
でたらめな音で奏でられた祖母の歌に、思わず私もくすりと笑った。
夜が来た。予測通り雲ひとつない満月の夜で、私は隠れていた場所からそっと抜け出した。はじめはトイレにでも隠れていようかと思ったのだが、すぐにばれちゃうわよと祖母に言われたのでやめた。結果、祖母のベッドの下にバスタオルを敷いて、寝転がってペンライトで雑誌を読んでいたわけだが。
ベッド下から抜け出すと、祖母は見事な狸寝入りを解いて小さくウィンクをした。外靴をはいて、廊下に誰もいないか確認をする。この手の脱出は幼少時によくやった。子供は寝ていなきゃダメ、と七時に寝かされていた私を、祖母はそっと揺り起こしては夜桜を見に連れて行くのだ。その頃の記憶がふと舞い降りて来て、私はひとり、声を殺して笑った。
祖母を連れて忍び足で病院を出る。中庭に向かうと暗闇の中に大樹がたたずんでいた。大きな幹に大きな根、張り巡らされた枝から伸びる葉はもう落ちかけていて、穴だらけの網のようだった。
「ああ、ここよ。ここにおいで」
木の近くまで来ると、彼女は芝生の上に躊躇いなく座りこんだ。同様にして私も座る。胡坐をかいて眼前の木を見上げると、その向こうに満月が見えた。
「この木はね、きっと、ウサギ野原の兄弟の木よ」
祖母がぽつりとそんなことを言ったので、不思議に思って視線を向ける。祖母の横顔が昔見た少女の顔に戻っていることに安堵しながら、どこか違和感を覚えて首をひねる。
その時だ。
風が一陣強く吹いた。ざあ、という音とともに私の髪が揺れて、祖母の髪も揺れた。風に導かれるように顔を大樹に戻したとき、私は思わず言葉を失った。
「すごい…!」
大樹の葉は、風に吹かれて宙を舞っていた。ゆるやかに落ちてくるそれらの葉は、月光に照らされきらきらと輝いている。ふと、いつか見たウサギ野原の夜桜が脳裏に浮かんだ。祖母が見たかったのは、この光景なのだ。
「大丈夫だったでしょう?」
祖母のおどけた声が隣でしたが、私は顔を向けることができなかった。彼女がやさしく肩を叩いてようやく視線を移したとき、ちょい、と髪を引っ張られる。秘密の合図。嬉しくなって笑顔で彼女を抱きしめた。やさしく、強く抱きしめた。
「いい夢をありがとう、奈津」
祖母が耳元でそう言った気がして、え、と体を離すと彼女は微笑んでいた。柔らかな笑みで、大好きな少女のような笑みで。
その夜から一週間後、仕事先に連絡の入った私は、母から祖母が亡くなったことを聞かされた。私が祖母っ子だったことを考慮してか、祖母の体がそう長くないことを教えてくれなかったらしい。彼女と二人で夜桜を見たあの晩、祖母の体は静かに朽ち始めていたのだった。
「ひどいよ、内緒なんて」
あわてて駆けつけて、遺体安置所に置かれた青ざめた祖母の体を見下ろした。ぽつりと呟けば、祖母が狸寝入りを解いてくれるような気がして、私はしばらくそうしていた。やがて母がそっと部屋を出て、父がそっと部屋を出た。安置所には祖母と私の二人きり。そう思った途端、体が小さく震えはじめた。
「ねえ、この前の夜桜、覚えてる?」
声は小さく震えていた。気がつくと涙が頬をつたっている、心に積み重ねられたものが大きな音をたてて崩れていくのがわかった。
「私、絶対忘れないよ。絶対、絶対、ここの桜は無理かもだけど、絶対に、また、桜を見に行こうね」
ぽたり、と、私の涙が祖母の眼尻に一粒落ちた。つ、と流れていったその雫は、まるで祖母が泣いているかのように見えた。震えが止まらない。どうして、どうして、心の中で繰り返しても、祖母がその目を開けてウィンクすることはとうとうなかった。
「ねえ、おばあちゃん」
安らかに目を閉じた青白い肌を通り過ぎて、私の手は自然と彼女の後ろ髪をやさしくつかむ。小さく引っ張り、頬と頬をそっと合わせる。このまま時間が止まってしまえばいいのにと何度も何度も呟きながら、しかし、私はそっと呟いた。
「ウサギ野原で待ってるよ」
- end -
2008/05/13
サークルのテーマ小説用に書いた没作。
現在は自由発表ファイルにて、短縮版を見ていただいています。
で、短縮版の終りがちょっと微妙だったので、今回加筆修正をして載せさせていただきました。
おばあちゃんと奈津の秘密の合図が書きたかっただけだったりする作品。
この秘密の合図、本当は、自分の後ろ髪を引っ張ると「ウサギ野原で待ってる」っていう合図にしようと思ったんですが、いろいろ都合上かえちゃったw
おばあちゃんとウサギの集会の話も今度書きたいなv
ひたすら可愛さを目指して書いたんですが、どうなんでしょ…。
相変わらず起承転結がうまくまとめられない雨雲ですが。雰囲気的には満足だったり…する。
Harasu Uun