通学路で通る小さな公園のベンチから、その老人が消えたのは昨日のことだった。
老人は毎日のように公園のベンチに座り、ぼんやりと空を眺め、たまにお茶を飲んだりして、私たちの間では「ベンチ爺さん」と呼ばれていた人だった。
私は彼と話したことはないし、彼も私の存在を知っていたとは思えない。だが、通りがかりに見る彼のなんともいえないさびしげな表情が、私の中に深く残っていた。
その日、老人が座っていたベンチの前に、小学生くらいの少年がじっとたたずんでいるのを見つけられたのは、とても幸運なことだったのかもしれない。
少年はランドセルを背負ったまま、老人が座っていた場所をじっと見詰めていた。
一向に動く気配のない彼を見かねた私は、夕暮れどきなのを気にして優しく声をかけた。
「どうしたの」
少年は一瞬ちらりと私を見たが、特に何も答えなかった。
沈黙。
私たちの横をカラスが一声鳴いて通り過ぎ、たじろぐ私をよそに少年は静かに口を開いた。
「……お兄さんがいないの」
「お兄さん?」
思わず聞き返した私の言葉に、彼はやはり答えない。
しばらくそのまま待っていると、少年はゆっくり歩いてベンチに座った。私と向かい合う形になり、彼は静かに微笑みながら自分の隣を軽くたたいた。
正直そのまま座って良いモノ化と迷いはしたが、言われたとおりに彼の隣に座る。
少年はそこで静かに、自分と老人の関係を話し始めた。
少年は、自分は不登校だったと言った。よく分からないが、病気で二ヶ月間入院生活を送っていたために、クラスに入りづらいのだと。
そこでぶらぶらと公園を歩き回っていたら、老人が声をかけてきたのだという。
「お友だちはいないのかい?」
と、老人は聞いたのだそうだ。そして、「私も一人ぼっちなんだよ」とも。
少年は老人によくなついた。毎日ここにきて、老人と話し、小学校が終わる時間になると「またね」といって帰る。
少年にとってその老人は、理解し合える唯一の友人だったのだ。
少年は老人ことを「お兄さん」と読んだ。理由を聞くと、彼は照れながらこう言った。
「僕にとって友だちはお兄さん一人だったし、お兄さんは確かにお年寄りだけど、僕よりうんと年上だけど、でもとっても話が面白いんだ。僕が知っている誰よりも、お兄さんは子供みたいだった。……目をきらきらさせて話してくれた、お兄さんの昔話。子供みたいだったんじゃない、お兄さんは、僕よりもうんと心が子供だった」
けれどしばらくして、老人は少年に小学校へ行くように説得し始めたのだという。その話になるといつも避けたがる少年に向かって、老人は一つ、自分のことを話したそうだ。
「私には君くらいの孫がいたんだよ。けれどその子は、あるとき交通事故で亡くなってしまった。私は息子夫婦にあまり好かれていなくてね、一度も孫のランドセル姿を見ることが出来なかった……。君を見ているとね、写真でしか見たことのない、なくなった孫の姿が重なるんだよ」
その話しを聞いた少年は、それで少しでも老人が救われるのなら、と、翌日ランドセルを背負って老人の元を訪れたそうだ。
それから少しずつ、少年は小学校へ行くようになったといった。
少年はそこで一度口をつぐんだ。悲しそうに目を伏せて、声を振るわせ絞り出す。
「でもね、昨日も今日も、お兄さんがいないんだ」
毎日欠かさずに着ていたのに、と彼は付け足した。泣いているのだろうか、一度彼は服の袖で目をこすって、立ち上がる。
私は彼に、「お兄さんはもう死んだ」と言うことが出来なかった。
彼は私のほうを見つめながら、無理に笑って見せた。夕焼けで紅く染まった彼の姿に、一瞬、あの切ない表情を浮かべていた老人を思い浮かべる。
彼は笑う。
「お兄さん、明日は来るかなぁ……僕、本当に心配なんだ。……お兄さん、来るかなぁ……」
笑いながら呟き続けて、少年はゆっくりと歩き去っていった。小さなその背中はこちらを向いたままだ、少年は振り返らない。
至極のんびりとした速度で去った少年を見送りながら、私もゆっくり立ち上がる。
「お兄さん……」
口の中で呟いて、その響きに縛られそうで、私も歩き出す。
明日も来よう、その次の日も。あの少年と共に、私も来よう。
“お兄さん”のあの顔を、私たちは知っているから。
- end -
2006/08/18
予告していた「お兄さんのベンチ」、初稿はこんな感じになりました。
これから推敲しつつ、長さを見ながら変えていきます。
なんだかふとした日常を書きたくなって、思いついたのがこのお話でした。
穏やかな空気、切ない気持ち、そういうものを表現したくて色々やったつもりですが、少しでも伝われば幸いです。
登場人物は「私」と「少年」と「おじいさん」。
おじいさんを「お兄さん」と呼ぶ不思議な少年に出会った私の、ちょっとしたお話です。
Harasu Uun