そうよ、と大きな声が聞こえた。
学校の廊下の端と端とは結構長いもので、美香は二年三組と書かれたプレートをぼんやりと見上げていた。そうよ、廊下の端から声が響く。
向こう端に立っているのは親友の知美。この春美香のクラスにやってきて、この夏、別の学校へと転校する。詳しく聞いたことはないが、知美の家庭は少々複雑で、母親が二度再婚をしているらしい。そして夏に、二人目の夫との離婚が決まったようなのだ。知美は母親についていくらしい、母達のうわさ話は既にクラス中に伝わっていた。
「美香はまだまだ子供だもんね」
再び、向こう側の知美が声を出した。美香は答えない。知美はいつだって美香よりも少し大人びていて、美香よりも多くのことを知っていた。美香にとって知美は憧れの存在であったし、それはクラスの誰もが抱いていた感情だった。
「そうよ、子供よ」
大きな声で返す。誰もいない廊下は内気な美香の声でもよく響いた。目の前に立っているはずの、しかし距離的にも精神的にも遠くに立っている知美が、かすかに微笑む。眼鏡の奥でぼんやりと視界が揺れた。
「馬鹿ね、冗談よ」
気づくと知美は目の前にいた。軽く息を乱して、しかしその顔はさわやかだった。知美は悲しくないのだろうか、ふと、思う。
「私は、中学生だもん。ただの、中学生だもん」
美香は呟く。髪を乱したまま、とりあえず呼吸だけ整えようとする知美は同い年に見えないくらい美しかった。茶色がかった長い髪が夕日できらきらと輝き、一瞬、彼女が本当にここにいるのかわからなくなる。すでにどこかに消えていってしまったような感覚すら覚え、美香は戸惑う。そう、自分はただの中学生なのだ。ごく普通の、田舎の中学生。そしてそれは、知美にも当てはまるべきことだった。
「さびしい?」
呼吸を落ち着かせた知美が静かに聞いた。なぜ彼女は、いちいち動作が綺麗なのだろう。
「正直に言うと、よくわかんない」
「そう」
彼女は小さく笑った。その顔は悲しげにも見えたし、微笑んでいるようにも見えた。こういう複雑な表情が、美香は嫌いだった。知美が誰か別の人のように思えたし、自分たちとは全く違う存在のように感じられた。
「ともちゃんは? ともちゃんは、寂しくないの?」
一瞬、知美が驚いたような顔をした。それは本当に一瞬で、じっと彼女の顔を見ていなければ気づかなかっただろうと思う。すぐにあの奇妙な笑みに戻ってしまったが、美香はそれだけで答えを見つけたような気がした。
「平気よ、慣れてるもの」
そう、今度ははっきり笑って言った彼女に、美香はどうしたらいいかわからなかった。
知美と初めて出会ったのは習字教室だ。近所の習字教室に小学校三年から通っている美香は、教室内ではかなりの古株で、同時にお姉さん的位置にいる。自分より年上の生徒はまだ数人いたが、彼らと美香とでは近づきやすさが違った。先生に気に入られているのも、美香がそのような位置にいる要因だったと思う。
始業式の始まる前、美香は週一である習字教室の扉を開けた。いつもより早く着いた美香は、教室の奥で誰かが話しているのを聞いた。
習字教室は、教室を開いている宮本先生の自宅の和室で行われる。和室は玄関から入ってすぐのところにあり、先生は二階を中心に生活しているらしい。一階の奥には一応居間があるが、そこにはテレビと皆が使える電話、卓袱台くらいしか置かれておらず、教室が終ったあとや、早く着いてしまった子が主にたむろしている。そのリビングのさらに奥の部屋に、習字の道具を置いている元客間がある。声は、どうやらそこから聞こえているらしかった。
荷物を置いて、美香は元客間へと足を進めた。古い廊下はきしきしと音を鳴らす。ある種の肝試しのような感覚に陥りながら、リビングを通り過ぎる。
そのときだ。
「美香ちゃん?」
ひょいと、右手の階段から宮本先生が降りてきた。黒くつやのある髪を肩ほどで揃え、小柄な先生は年を感じさせない。一瞬びくりとして、けれど美香は落ち着いて言った。
「あの、奥に誰かが」
先生は「え?」と廊下の奥に顔を向けた。薄暗い廊下の先で、確かに誰かが誰かと話をしている。そこで先生は思い至ったのか、静かに頷いて美香を見た。
「そうそう、新しく入るかもしれない子よ。転入生ですって。美香ちゃんの学校じゃないかしら? 今、お母さんと見学してもらってたの」
先生は楽しげだ。こうして微笑みながら話す先生は本当に少女のようだ、美香はぼんやりと思った。
「そうだ、美香ちゃん話し相手になってくれない?」
「え」
答える前に、先生は美香の背中を押していた。暗い廊下を、先生と美香の二人分の足音が通って行く。きしきし、きしきし、元客間の倉庫へ近づくにつれ、墨汁特有のつんとした匂いがした。
「明智さん」
先生は美香をまず部屋に押し込んでから、顔だけ覗かせてそう声をかけた。
元客間の倉庫は、大きな整理棚が三つ、中央に平行に置かれ、その周りをさらにぐるりと同じ棚が囲んでいる。中には墨汁や様々な種類の半紙、下敷き、筆など習字道具が置かれている。奥の方の棚の一番下の段に、小学校で買ったような習字セットが無造作に入っているのを美香は見た。
棚の間から顔を出したのは、三十代後半くらいの女性だった。きれいに染め上げられた茶髪が真っ先に目に入る。長いその髪は照明に当たってきらきらとしていた。女性は少し怪訝そうな顔をして美香を見る。ややつりあがった目が強い印象を与えるが、すっと伸びた鼻、整った眉、全体的に美しい女性だった。
「この子は春日美香ちゃん。うちの古株なんです」
先生は構わずに続けた。女性は少しためらった後、棚の奥に向かって声をかけた。
「知美、来なさい」
女性のいた棚よりも一つ奥の棚から音もなく出てきたのは、美香と同じくらいの少女だった。女性よりも濃い茶色、どちらかというと茶色がかった黒と表現した方がいい髪が、母親であろう女性と同じように長く伸びている。一見二人は瓜二つのように見えたが、よくよく見ると顔のパーツが違う。女性が釣り目なのに対し、少女は大きなリスのような瞳をもっていた。
「春日美香ちゃん。いいお友達になれると思うわ」
先生の声に続けて、知美と呼ばれた少女は柔らかく微笑みお辞儀した。つられて美香もお辞儀する。
「よろしくね」
頭をあげて目が合うと、知美はそう言った。小さな声で返す。
「では今日はどうします?」
彼女の髪が、母親のそれよりもやわらかく輝いていたのを、美香はぼんやりと見つめていた。先生の声が、遠くで子守唄のように聞こえていた。ただただ、目の前の少女の浮かべた笑みが、奇妙な仮面のような気がして仕方なかった。
「明智知美です。よろしくおねがいします」
始業式が終わって、最初のホームルームで知美は紹介された。小さな学校だ、転入生がくるというのはあっという間に広まった。田舎だけに転入生というのは珍しい、転校生は山ほどいるのに。知美が来ることを知っていた美香は、ぼんやりとそんなことを考えた。
美香はこの春中学二年になった。一年の時にいた友達は、親の仕事だとかでどんどん転校していった。気がつくと、二クラスあった学年は一クラスに減っていた。作られた当時は子供がたくさんいたのだろう、階ごとに三つある教室は、今はどの学年も一つしか使われていない。
知美はすぐにクラスに馴染んだ。クラスメイトが開けた生徒ばかりだったのもあるだろうが、それまで転校を繰り返したらしい知美は馴染むことに長けていた。転入して一週間もすれば、皆が知美をクラスのアイドルにしてしまっていた。知美はきれいだ。きれいで、なんでもできた。また、都会的でもあった。しかし美香は、書道教室の元客間で見た、仮面のような柔らかな微笑みが忘れられない。クラスが知美に馴染む一方で、美香だけは、知美と共にいることに微かな違和感を感じていた。
「春日さん」
最初に声をかけたのは知美だった。知美も、いつまでたっても自分と目すら合わせない美香が気になっていたのだろう。帰りのホームルームを終えると素早く美香のもとまでやってきて、彼女の進路をふさいでしまった。その日は週一回の書道教室の日でもあった。
「明智さん…」
あれから知美は習字教室には来ていない。以前住んでいた土地で少し習ったことがあるとかで、一応見学に来ていただけと聞いた。宮本先生は、知美の家は転勤族だから中々お稽古事をさせられないのだとも言っていた。だから美香が知美と話すのは、これでようやく二回目だった。
「今日、私習字教室行ってもいいかな。月謝は払ってないけど、でも」
なぜ、今? 真っ先に浮かんだのはそれだった。相変わらず知美は仮面の微笑みを浮かべている。美香はその仮面をひんむいてやりたい衝動に駆られた。あんたは私と同い年なのに、なんでそんな、そんな顔をしなければならないのだと、そう、大声で言ってやりたかった。
「大丈夫だと思うけど…なんで?」
「ん? なんとなく、墨汁の匂いが嗅ぎたいなって」
そう言って彼女は曖昧に笑った。
帰り道、知美と二人で習字教室まで歩く。美香は一言だけ、「宮本先生が喜ぶよ」と言ったが、知美は微笑んだだけで何も話さなかった。
しばらく歩いて教室に到着する。玄関を開けると出迎えてくれた宮本先生が少し驚いた顔をしたが、知美が見学したい旨を告げると快く中へ入れた。それから知美は元客間へ、美香は和室へ、お互い何も言わずに入って行った。先生は美香に知美のことを聞きたがったが、美香は何も言えない。和室の中にはすでに何人かの小学生が書き始めており、美香もそれに倣う。墨汁の匂いが、知美の言葉を思い出させた。―――「なんとなく、墨汁の匂いが嗅ぎたいなって」
気づくと美香は元客間の前に立っていた。開け放たれた扉の向こうには棚しか見えない。彼女は、この部屋をどんな思いで、どんな表情で見ているのだろう。墨汁の匂いを嗅ぎながら、長い髪をゆるやかに輝かせながら。
一歩、足を踏み入れるのはひどく勇気がいった。美香は知っていた。この部屋に入れば知美の仮面の下が見られるのだと。知美の年相応の笑顔が見られるかもしれないと、知っていた。そして、それをどこかで強く望む自分がいるのも知っていた。
「明智、さん」
小さな声で名前を呼んでから、棚の間を覗いていく。本当は一つ一つ覗かなくとも、彼女がどこにいるかくらいわかっていたのかもしれない。そしてその予感通り、彼女は一番奥にいた。
「春日さん」
ふと、驚いた声でこちらを向いた彼女はそれまでのような仮面ではなく、年相応の表情だった。大きな目をもっとあけて、白い肌に夕陽を一身に受けている。
「なにやってたの?」
美香は極力やさしい声で尋ねた。知美は一瞬ためらって、そして、ちらりと視線を上にあげた。
「あの字を見ていたの。あの、右から三番目」
言われるまで、美香はそこにそれが貼ってあることに気付かなかった。今まで何度も入っているのに、物品探しで下ばかり見ていたせいか、それとも奥の棚はめったに使わないせいか、全く気付かなかったのだ。―――それは、昔の生徒が書いたと思われる字だった。この教室にはじめてくる子がはじめて書く字。棚の上の文字は少々いびつで、先生の丁寧な赤筆が入っている。はねが悪い、とめが悪い。今と変わらぬ赤い字を見詰めながら、美香ははっきりと困惑した。
「あれが、どうしたの」
その文字はもはや黄ばんでしまった半紙に描かれ、どう見てもきれいとは言い難かった。ただ、年代を感じるのは確かだ。あれがどうしたというのだろう。名前も書かれていない、その文字が。初めてここを訪れたはずの知美に、何を思わせたというのだ。
「どうしたっていうか…」
知美ははっきりと言いよどんだ。明らかにこの話題は彼女が話したくないことなのだ。わかった途端、美香は何としてもその理由を聞かなければならない気がした。知美を見つめる。彼女の顔には、やはりあの仮面の笑みは浮かべられていなかった。
「お父さんが、」
ゆっくりと言葉が漏れる。彼女が自分に何かを伝えようとしていることが、ひどくうれしく思えた。あんなに、彼女と目を合わせるのも嫌なほど、明智知美という存在に違和感を抱いていたのに。
返事のない美香をおいて、知美は続ける。
「お父さんが、この教室の一番初めの生徒だったの。宮本先生はまだ若くて、国語の先生になったばかりだった」
「じゃあ、お父さんの実家がこっちにあるんだ?」
何気なく美香は問うた。知美は緩く首を振る。
「お父さんの実家はあるにはあるけど、それがどこか私は知らない。お母さんとお父さんは、私が小さい時に離婚してしまったから」
知美は再び上を見上げた。やはり、右から三番目の、あの字を見ている。美香はなんて声をかけたらいいのかわからなかった。ただ、最初に彼女を見た時と同じように、彼女の髪がきらめくのを見つめていた。
「私はお父さんに会いたかった。小さい時、お父さんが抱きしめてくれた時の墨汁の匂いが離れなかった。それだけ」
気がつくと知美はじっと美香を見つめていた。ぼんやりと視線が絡む。やはり知美は自分とは違うのだ、美香は頭の隅でそんなことを考えて、それが当然とも、あり得ないことだとも思った。
「春日さんは、なんでここに来たの。私に会いにきたの。学校では避けてるのに?」
しっかりばれていた。
やはり他人の感情には鋭いのだろうか、美香は知美に鋭く責められた気がして、一歩、後退する。棚の中の物品の隙間を縫って入る夕日が眩しい。下段に、以前見た習字セットがそのままの状態で置かれていた。
「私は…」
言葉が続かない。もはや彼女の髪を見ていることはできなかった。視界に映る習字セットが内気な自分を嘲笑っているように感じる。昔から、習字以外のことでほめられたことはないし、それ以外のことで誰かと仲良くできたこともなかった。
私はなぜここにいるのだろう、ぼんやりとそう思う。否、そんなことはじめからわかっていた。わかっていてここにいるのだ。ここに来たのだ。彼女に会いに、彼女の仮面を剥ぎに来たのだ。
「私は、明智さんと友達になりたい」
気づくとそんなことを言っていた。沈黙が肌を突き刺して居心地悪さを際立たせている。知美は、あっという間に仮面の笑みに変わっていた。
「友達? いいわよ、なりましょう」
あ、あ、と声を出す間もなく彼女は強引に美香の右手を取っていた。強く握られ、無理やり握手をさせられる。違う、そうじゃないのに。仮面のあなたとは友達になんてなりたくないのに。
「や、やめて!」
それはほとんど反射だった。反射的に、彼女の手を振り払っていた。体が震えている。声は美香の意志とは関係なく言葉を紡いだ。
「そうじゃないの。そうじゃ。私は、そのあなたとは友達になんてなりたくない」
知美の笑顔が崩れないのに、美香は恐怖を覚えていた。振り払った手をやさしくさする。今はもう、彼女の髪がゆるやかに輝いていたことさえ信じられなかった。
「怖いよ。私は、明智さんのその笑顔が怖い。そんな笑顔をするあなたとは、友達になりたくない」
言葉ははっきりと拒絶の意思を紡いでいた。もう止められない。知美の口元が少しだけひきつったのを、けれど美香は見ていなかった。
習字セットが、見える。違う、習字セットが私を見ているんだ。美香はそう思った。
「私はさっきの、お父さんの話をした明智さんと友達になりたい。クラスのみんなにおんなじ笑顔を浮かべる明智さんとは仲良くしたくない。クラスにいてほしくない。でも、さっきのあなたとは、友達になりたい」
変なことを言っているのはわかっていた。知美はもう仮面の笑みをやめていた。怪訝そうに、はたまた心配そうに美香を覗きこむ。冷たい右手で美香の頬に触れた。
「私は、一人しかいないわ。何を言ってるの?」
嘘だ、心の中でつぶやいた。たぶん、知美はすでに知っているのだ。自分が上辺だけの関係のために、上辺だけの笑顔を浮かべていることを。いつの間にか、本当の笑顔をどこかへ押し込めてしまったことを。嘘でしょう、知ってるんでしょう、美香は心の中で何度も繰り返した。
「明智さんがどんなところで育ってきたか、私、知らない。どんなに大変な思いしてきたか、知らない。でもその笑顔が嫌いなの。そんな笑顔より、私はさっきの、あの字を見ていた明智さんがいい」
知美が触れている部分から、冷たさが染みていくようだった。それは美香に、自分が知美に囚われかけていると感じさせた。墨汁の匂いがいまさら鼻に通ってくる。つんとした匂い。彼女の父の匂い。
「……そうかもね」
ふ、と手が放された。瞬間頬に温かさが戻る。知美は笑っていた。
「明智さん…」
その笑みは、仮面のそれではなかった。やさしく、慈しむような笑みを浮かべて、知美は言った。
「初めてだわ。見抜かれたの。みんな、私の笑顔にだまされる」
そうして、くすりとはにかんだ。
誰もいなくなった教室で、美香と知美は夕日を眺めていた。いつだって夕日は二人を照らしている。蝉の声が、短い夏の始まりを知らせていた。
廊下の両端で向かい合おうと言ったのは知美だった。美香はどうして知美がそんなことを言ったのかわからない。しかし、気持ちはわかるような気がした。明日、彼女はここを離れる。
長いこと沈黙が包んでいた。それでいいと思った。知美はあの仮面の笑みをもう貼り付けていない。クラスメイト達には向けられるあの笑みが、自分には向けられないことに美香はひどく安堵していた。
「昨日」
ふと、知美が声を出した。まるであの日、元客間で彼女の父の話を聞いた時のようだと美香は思う。
「昨日、お父さんの実家に行ったの。迎えにきたお母さんを問い詰めて、こっそり、一人で見に行ったの」
美香は何も言わない。言ってはならないと知っていた。
続ける。
「もうね、家がなかったの。お父さんが子供時代を過ごしたその家は、もう更地になってた。そこで私、わからなくなった。私には本当にお父さんがいたのかな」
彼女は母の再婚相手を父とは呼ばない。彼女が「お父さん」と呼ぶのは、心からそう呼ぶのは実の父ただ一人だけ。
美香はそっと彼女の横顔を盗み見た。もしかしたら彼女は泣いているのかもしれない。しかし、夕日に照らされやさしく輝いている彼女は、涙を流してはいなかった。
「ただの地面になった家の跡を見て、何の感情も起きない自分に腹が立った。私はお父さんに会いたかったはずなのに、ずっと、ずっとお父さんの影を追っていたはずなのに。でもね、吹っ切れた気もしたの」
「吹っ切れた?」
そこで初めて相槌を入れると、知美は静かに笑って美香をみつめた。続けるその声は穏やかだ。
「そう。もう、お父さんの影を追わなくていいんだって、吹っ切れた」
だから行くの、彼女はそう言って黙り込んだ。美香は知美の家の事情をよく知らない。ただ彼女の両親は離婚し、母が何度も再婚をしていることは知っていた。知美は、どうして父の影を追っていたのだろうか。この地に来たのは、ここが、父の故郷だったからなのだろうか。
「今までいろんな学校に行ったけど、ここは楽しかったよ。私、昔の学校の人とか覚えてないけど、美香のことだけはずっと覚えてる」
約束、ね。
差し出された小指に己の小指を絡ませると、あの日のようにその手は冷たかった。あの日と同じ、冷たさが美香の体を侵食していく。しかしそれは、あの日とは違う心地よさを感じさせた。
いつまでもともだち ずっと ともだち
するりと小指が離れていく。名残惜しく感じながら、知美が笑ったので美香も笑う。
「私、寂しくないよ」
美香は言った。その声がそれまでの彼女よりはるかにしっかりした声色だったので、知美は少し眉を上げた。
「ともちゃんとはまたどこかで会える気がする。どこにいても何をしても、私はともちゃんを思い出せるよ」
はっきりと言い切ると、知美は声をあげて笑いだす。やはり、彼女も同じらしい。
「ほんとに、美香は子供だね」
くつくつと笑いを止めない知美に、美香は膨れて付け足した。
「美香は、じゃなくて、美香も、でしょう。私はただの中学生だけど、ともちゃんだってただの中学生なんだよ」
言うと、彼女はますます楽しげに笑いだした。そうだ、そうなのだ。どんなに大人に見えたって、一つ一つの動作が見惚れるほど美しくたって、彼女も同じなのだ。美香と同じ、中学生。ただの子供でしかない。
「そうね。私も子供だわ」
だからいいのよね、笑っても、いいのよね。
美香には知美がそう続けたような気がして、じっと彼女の瞳を見つめる。知美はすぐに視線をそらしてしまったけれど。ガラスのような彼女の瞳には鮮やかに夕日が写っていた。
「また、会えるよね」
「ええ、また会えるわ」
少しだけ不安になって尋ねた。彼女は微笑んだまま言葉を紡ぎ続ける。大丈夫、ぜったい、ぜったい、また会える。
明日になれば彼女がこの町から消えてしまうのだと、美香には信じられなかった。明日から夏休みが始まる。彼女と上辺だけの付き合いだったクラスメイトは、休みの間に彼女のことを忘れてしまうのだろう。学校が始まっても、まるで彼女の存在は始めからなかったように振舞うのだろう。
「心配?」
ふと、心を読んだかのように知美が囁いた。あんまり近くで聞かれたものだから、美香はどきりとして顔を赤らめた。
「大丈夫、私は美香が覚えてくれていればそれでいいから」
どうやら本当に彼女は美香の心を読んだようだ。突然かけられた言葉に、美香はきょとんとしてしまう。そうだ、知美は人の感情を読み取ることに長けていた。
それでいいのだ、美香も思う。クラスの皆が忘れても、自分が忘れなければいいのだ。自分さえ忘れなければ、知美は確かにこの町で暮らしていたのだし、このクラスに確かにいたのだ。そして、美香にとってみれば知美を忘れる方が難しいのだ。
「うん、そうだね」
美香は笑って頷いた。明日、確かに知美は去ってしまうかもしれない。時間がたつにつれ、彼女がここで生きていたという事実が薄れていくかもしれない。しかし美香は思う。この先、墨汁の匂いを嗅いだり、小学生の書道セットを見たりするたびに、自分はあの元客間での知美を思い出すのだ。そうして、それが引き金となり、彼女とすごした時間を思い出すのだ。わずかだったがとても濃厚だった、あの日々を。
知美が立ち上がる。つられて美香も立ち上がった。夕日はもう沈みかけていた。生徒は早く帰れという旨の放送が先ほどから大音量で流れている。夜が、くる。
彼女と学校からの道を帰るのはこれで最後になるのだろう。明日から、自分もまた何事もなかったように暮すのだろう。知美が手を差し出す。長い髪を揺らす彼女は、やはり、きらきらと輝いていた。差し出された手を取った。二人でくすくす笑いあう。手をつないで歩くなんて、小学生以来だ。
ふわり、と、墨汁の匂いが漂っていた。その匂いは、たしかに彼女のものだった。
- end -
2009/10/12
長い間のひきこもり状態(=ネット未開通)から解放されて、ようやくあげることができました。
この話は結構最近書いたもので、直前に恩田陸の文庫を三冊ほど読んでいたせいか、少し文体が影響受けてる感じがします。
や、こんなこと書くと恩田先生に失礼ですが苦笑
離婚と再婚を繰り返す母をもつ知美と、そんな知美の「偽の笑顔」にどうしても違和感を拭えなかった美香。
二人の出会い話を書いてみました。
墨汁の匂いは独特ですよね。その独特のにおいだけが知美にとっての実の父への手掛かりで、どうしてもその匂いに惹かれていく、そんな話を書きたかったはずなんですけど。
おかしいな、なんか方向間違えてる
まあ美香と知美の仲の良さっていうか、心の繋がりを書けたのでいいのかなと…
ていうかあとがきというものを一応文章まとめる練習として書いてるはずなんですが、一向に上手くならない!笑
あとがきの存在価値が薄れてきたような気がしてならない(あとがきに失礼だ!
Harasu Uun