それはずいぶんと昔の出来事だったのかもしれない。どうして今になって思い出したのかもわからない。ただ気がつくと彼女の面影を追っていた、そういうものなんだと足立雄太は思った。極度に発達を遂げたこの世界で……代わりを探すことなんて、たぶん、いくらでもできるのだから。
今から十五年ほど前、世界は太平洋の海底で見つかった新物質「マリア」を手にし、極端な科学発達を遂げた。ちょっと前まで騒がれていた地球温暖化は、有害物質を一切排出せず、かつオゾン層を修復させる効力をもつ「マリア」によって消滅し、なんにでも使えた「マリア」を研究者たちは重宝した。
当時の新聞を見ると、「マリア」は太平洋海底にずっと広がっているらしく、ようやく深海に到達できる潜水艇を開発したNASAグループが発見した。発見当初、NASAがほとんどの「マリア」を牛耳る形になっていたが、ヨーロッパ諸国や、近年台頭してきたアジア諸国との摩擦を考えて、アメリカ政府がそれを阻止した。今では割と広く普及しているようだ。
「マリア」のおかげで、人類は新たなステージへ向かったといっていいだろう。ほぼ人間と同様の機能を持つアンドロイドの作成。最初にそれを手掛けたのは、やはりというかなんというか、日本だった。世界初のアンドロイド「МARIA―N1G2119」は、日本人女性をモデルとした比較的小柄な体躯のアンドロイドだった。黒く長い髪、同色の瞳は日本の大和撫子を彷彿とさせ、各国のジャパンマニアから注目を浴びた。彼女ができた仕事は多々あるが、主として家庭用メイドアンドロイド、通称「メイドロイド」であったために、家事全般以外のことはあまり得意ではないようだった。
見た目は精巧な作り、動作もほとんど人間同様、しかし初期マリアの欠点は音声が完全なる機械音だったことだ。会話機能においてだけ、マリアは従来の旧型ロボットとさして変わりなかった。故に会話機能を充実させた新型アンドロイドが次々と開発され、世界はアンドロイドであふれていった。
今や二十三機目ともなる新型のアンドロイドを前に、早くも「旧型」のレッテルを張られたマリアを思い出すものはいなかった。
足立雄太がマリアを目にしたのは、本当に偶然のことだった。たまたま重宝していたメイドロイド・梓が壊れ、新しいアンドロイドを買おうにも新型ばかりで値段が高く、なかなか手を出せないでいた時だ。その手のマニアであった友人の勧めで、比較的安く、機能の良いアンドロイドを提供してくれる中古店へ向かうことにしたのだ。友人曰く、中古店だが品揃えと品質管理は一級品だから、ほとんど新品のようなもの、らしいので、足立はおいしい話だと喜んで付いていったのだ。
その店はアンドロイド店ばかりが立ち並ぶ商店街の一角、大手アンドロイド販売店の横にそれた脇道の奥にあった。薄暗い路地を抜けると背の低いビルが見えて、その三階が例の中古店だった。エレベーターで三階へ向かい、フロアに降りた瞬間目についたのはこちらを向いてじっとたたずむ二人の少女。マニアック向けの新型アンドロイドで、名前は確かアヤナとメリーだったか。コマーシャルの内容をぼんやり脳内で思い出しながら、二機のアンドロイドの間を抜ける。目の前を通ると、アヤナとメリーはほぼ人間と変わらぬ動作でお辞儀をし、「いらっしゃいませ」とかわいらしい声で言った。
「満君、今日は紹介かい」
「ええ、友人が、壊れたアンドロイドの代わりが欲しいというもので」
店の奥から出てきた店主は四十代後半くらいの男で、クリーム色のポロシャツの上から紺地のエプロンをつけていた。ポケットに入った工具がいかにも修理屋らしくて、物珍しくて目を見張る。しかしそんな主人の汗臭いイメージと逆に、店内は多種多様なアンドロイドであふれており、実に華やかだった。電源の入っていないアンドロイドが生きた人形のようにこちらを見つめている。ぴくりとも動かないさまが、逆に恐怖を覚えさせた。
「あの、割と安めの値段で、家事ができる子、いますか?」
雄太は基本的にアンドロイドをロボット扱いしない。人間の姿をしているのだから、どうしても非人道的に扱えないというのもある。あまりにもアンドロイドが普及したので、アンドロイドをロボットとして扱う、つまりかなり非人道的なことを平気で行う人達が増えているのだが、雄太にしてみればその感情が理解できなかった。
「安めで家事ができる子ねえ、そこの奥の棚、一応全部家事用のメイドロイドなんだけど、どれくらいの予算で買いに来たんだい」
愛想の好さそうな男に問われ、言いにくそうに答える。持ち金が少ないと貧乏人と思われるだろうが、これ以上アンドロイドに経費をかけていられないので仕方がない。しかし男は値段を聞いてもニコニコ笑うばかりで、じゃあ大丈夫だから自由に見ててよ、そういうと店の奥に引っ込んだ。
「割と放任主義なんだ、ここの店主」
ついて来てくれた友人はぽそりと付け足すと、奥の棚に促した。
ガラス張りのケースに入れられた少女たちは、皆、美しい顔を無表情で固まらせている。こうしてみると顔つきも結構違うものだ、雄太はそのことに感心した。一つの種類は大量生産されるが、種類ごとで顔が変わっているなんて、なんだかくすぐったい気分だった。
「ああ、大丈夫じゃないか、ここら辺全部」
棚の下側に置かれた値段を見て、友人は満足そうに声を出した。紹介したかいがあったよ、まだ買ってすらいないのにそんなことを言われて、雄太は曖昧に笑って返した。
「ああ、でも大分安いね」
新しい子を買うにあたってさまざまな店を見て回ったから、この店の商品が他の中古店と比べてもいかに安いかよくわかる。破産しないのかという勢いだ。それでいて、商品自体はしっかりしているというのだから本当にあなどれない。どこか怪しいのではと疑ってしまう。
値段はどれも似たり寄ったりだった。比較的新しい機種は若干高めだが、それでも通常価格で買うよりだいぶ安い。選び放題の状況に、どれがいいか目移りをしていた時だった。
なぜ急にそんな所を見たのかわからない。ただ自分から目をやったというよりは、目をやらされた、視線を向けさせられたという感覚の方が強かった。飛び込むように視界に映ったのは、数年前テレビや新聞でよく見かけた、初期モデルのマリアだった。
マリアは雄太たちが見ていた棚と次の棚の間の狭い隙間にすっぽりとはまっていた。細見のガラスケースにもすっぽり収まってしまう体は、日本人女性にしたって小柄すぎる気がする。黒くつややかな髪を後ろで一つにまとめ、白いブラウスに紺色のタイトスカートの姿はどこか女学生を思い出させた。スカートから延びるすらりとした細く白い足に靴は履かされておらず、人間のそれと同じような指が連なっていた。大勢のアンドロイドが雄太を見張っている中で、マリアだけが、瞳を閉じて黙していた。
「これ…」
思わず口に出すと、傍で二代前の機種を物色していた友人がひょっこり顔を出した。マリアを見つけて思わず口笛を鳴らす。
「すげぇ! これ、初期モデルのマリアじゃん! まだあったんだなー」
新型が続出してから初期のマリアは次々と破棄された。廃棄物処理場にマリアが山となっているのを見て、吐きそうな、奇妙な気持ち悪さを感じたのを覚えている。あの時ごみ山となって突き出ていた足が、腕が、顔が、美しい状態で目の前にあるのだ。そのことに感動している自分がいることに、雄太は少し戸惑った。
「でも、今さら初期マリアじゃなー。マリアシリーズの二代前ならほら、こっちにあるし。マリア系がいいならお前、こっちにしろよ」
雄太の肩を軽く叩いて隣のガラスケースを見つめる友人を静かに見つめる。しゃがみこんだ彼はマリアシリーズの新型より二期前の、「アンナ」をまじまじと見つめている。値段は相場より安かったが、予算よりは少し上。かくいう初期マリアは、ガラスケースで沈黙の祈りをささげながら身動きせずにそこにいた。値札が置かれていない。売り物じゃないのだろうか、一瞬そんなことを考えて、自分がマリアを買おうとしていることに雄太は驚いた。
「……はいはい、わかったよ。それがいいのね雄ちゃんは」
感情が行動に出やすい雄太だ、すぐさま雄太のほしいものを見抜いた友人は、アンナを見るのをやめてゆっくりと立ち上がった。マリアのケースを見回して、同じように値札がないことに気付く。ちょっとまってろよ、そう残して去っていった友人に、何やらすごく申し訳なくてうつむいた。
「マスター、あそこの初期マリアって売り物―?」
店の奥に向かって友人が問いかけているのがわかった。彼は酷く世話焼きだ。それでいて、やさしい。幼少期から内気で感情が出やすいタイプだった雄太は、幼馴染である彼に何度も助けられた。しばらく互いの仕事が忙しくて会っていなかったのだが、たまにこういう世話焼きのところを見るとそんなことを思い出す。うつむいた先に見えたマリアの裸足を見つめながら、雄太は懐かしさを覚えていた。
「お客さん、マリアが欲しいんだって?」
やがて怪訝そうな顔をして店主がやってきた。聞くと、このマリアはやはり初期モデルで、きちんとした形で残っているのはもうほとんどないのだという。本来ならこういう品は手が出ないほど高額なのだが、このマリアに至っては別だった。
「このマリアはな、そりゃ、はじめは高値で売れたんだよ。しかし、どういうわけかマスターと合わないらしくてなぁ。アンドロイドが主人を選ぶってのも変な話だが、帰ってきちまう。何度売っても何度売っても帰ってくるから、しまいにゃ売るのをやめようかと思ってたんだ」
今じゃ気づく客もいないしな、店主はぼんやりとそう言ってから、ふと、雄太に向き直る。
「あんた、十五万内なら、って言ったよな。あんたがきっと最後にマリアに気付いてやった人間なんだ、十万でいい、もらってやってくれねえか?」
それは願ってもない申し出だった。
両親のいない雄太は中学生の妹・カナと二人暮らしだ。自分が二十三だから、中二のカナとは八歳離れていることになる。雄太は駆け出しの絵本作家だったが、兼業でゲーム会社のプロジェクトチームに加わっているため、ほとんど家を空けていることが多かった。今ではカナに「絵本作家よりゲームデザイナーのが向いてるんじゃない」と言われるほど、そちらが主になってきてしまっている。
そんなわけで、足立家には人手が必要だった。しかも、できるだけ女性の。いくら女性を模したアンドロイドだからといって、女性の性的な悩みに答えてくれるわけではないが、知識くらいは詰め込まれている。困ったときどういう対処をしたらいいのか教えてくれるのだ、それも、恐ろしいくらい冷静に。年頃の妹相手に成人した雄太が相談に乗ってやるわけにもいかないだろうと、とにかくアンドロイド、もっといえばメイドロイドの存在は絶対必要なものだった。
マリアの入ったケースが家に届いたとき、たまたま雄太もカナも家を空けていた。送料がかかるからと友人に頼んで運んできてもらったマリアは、段ボールとガムテープに包まれたまま、とりあえず部屋の中央に安置される。連絡を受けてマリアが届いたことを知った雄太は、友人にそのまま開封しておいてくれと頼んだ。それは友人のちょっとしたいたずらだったのか、はたまた、本当にマリアが勝手に動き出したのか。ともかく、「開けておいてくれ」とは言ったが動いているとは思いもしなかった雄太とカナは、それぞれが帰宅した際、マリアが動いていることにびっくりした。カナにいたっては、「泥棒かと思ったじゃん!」と半泣き状態ですらあった。
「おかえりなさい、マスター」
出始めたころに指摘されたとおり、マリアの声はやや高めの機械音だった。抑揚のあまり付けられないロボット音声で出迎えられ、雄太ははっきりと動揺した。今まで扱ってきた梓との明らかな違い。初めて、アンドロイド=ロボットという式が雄太の脳裏をよぎっていった。
「あ、兄貴おかえり」
玄関先で呆然としている雄太をきょとんと見詰めたままのマリアの背後から、部屋着姿のカナがひょっこりと顔を出した。口にくわえたスプーンと手にしたカップから、昨日買っていたアイスを食べている最中だと思われる。本当に女の子は甘い物好きだ、気がそれたことに安堵して、雄太はようやくマリアを見た。
「ただいま、今日からよろしく、マリア」
「よろしくお願いします、マスター」
少し違和感を覚えて、リビングへ向かいながら雄太はマリアに尋ねた。
「僕がマスターなら、カナのことは何て呼ぶんだい?」
「カナさんです」
当たり前のように告げられたことに少しだけ笑う。カナはそそくさと卓袱台に戻り、壁にくっついた紙のようなテレビをぼんやりと眺めている。
「なら、僕も雄太と呼んでくれないかい。マスターってのは、主従関係みたいで少し嫌でね」
肩をすくめて提案すると、彼女は変わらずきょとんとした顔のまま、やがて情報を処理したのか、にっこり微笑んでいった。
「わかりました、雄太さん」
その姿があまりにも人間そのものだったので、雄太は再び戸惑った。いったい、どう扱っていいのかわからない。ロボットのように感じたり人間のように感じたり、自分はいったいどうすればいいのだ。
そもそも、あの、ガラスケースの中で沈黙の祈りをささげていたマリアが、今目の前で動いているという現実すら雄太は夢のように感じた。裸足の足がぺたぺたと動いている。梓の時も思ったが、マリアの時にはもう、質感までほぼ完全に人間だったのだと痛感する。眺めていた足の裏が黒くすすけているのを見て、雄太は思わずはっとした。
「マリア」
はっとしたついでに声がでた。自分でも意図していなかった呼びかけに、振り返ったマリアと同じように吃驚していると認識する。カナが一瞬こちらに目をやったが、視線がすぐにテレビに戻ったのを見て、小さく深呼吸をした。
「足の裏、どうしたの。汚れっぱなしじゃないか」
雄太の言葉にマリアはきょとんとするだけだった。返事がない。言いたくないことなのだろうか、そんな、アンドロイドにはありえないことを考えて、首を振る。きっと、前主人のデータは消去されているだけなのだろう。
「……まあいいや、おいで、拭いてあげるから」
言いながら歩き出すと、彼女は子犬のようにくっついてきた。ぺたぺたと裸足の音を出しながら、揺れる黒髪が眩しい。洗面所について風呂場のドアを開けて、途中で引っ張り出した清潔なタオルをお湯で濡らし絞ってから、手だけを使ってマリアを呼ぶ。
マリアの機体は耐水付いてたっけ、思いながら彼女の片足を手に取った。とたん、バランスを悪くしたマリアの体がぐらりと揺れたので、雄太はとっさに手を伸ばした。屈んでいた体制のまま、立っていたマリアの体を支えようと伸ばした結果、盛大な音とともに雄太はマリアの下敷きになっていた。
「うげっ」
カエルのような声をようやく出すと、びっくりしたらしいマリアは二、三秒そのまま硬直していたが、やがて自分が主人の上に座っていることに気付いたのだろう、あわててどいて手を差し出した。
「す、すみませんっ! 私は、バランスが他のマリアよりも悪いんです。それで、きちんと引き取ってもらえなくて…」
戸惑った感じの機械音声が脳に響く。ああ、まただ、雄太は思った。実に人間らしい口調で人間らしく話をしているのに、声とトーンが邪魔をする。人間とロボットの狭間。まさに、彼女はそこにいた。
「や、僕も悪かった。座って、足拭いてあげるから」
風呂場にある小さな椅子に座るよう促して、小声で「水、大丈夫?」と聞いてみる。彼女が小さくうなずいたのを確認してから、雄太は足の裏を拭き始めた。
ずいぶん時間がたったものらしいその汚れは、頑固にマリアの足にくっついたままだった。使っていた比較的新しい清潔なタオルは、徐々に取れていく汚れの表面で黒くくすみ始めている。ああでもない、こうでもないと呟きながら己の足をふく主人が珍しいのか、マリアは始終きょとんとした顔で見つめていた。きょろきょろと視線を変えるその動作は本当に人間みたいだ、だからやめてくれないか、喉まで出かかった言葉を抑えるように、雄太は彼女の様子が見えないよう、ずっと下を向いていた。
ようやく足の汚れが取れるころには、とっくに夕食時を過ぎていた。雄太が帰ってきたのが夜七時くらいだったから、それでも遅い方なのだけれど。不規則な帰宅時間の雄太とあわせて夕飯を食べようと思えば、十時くらいになるのも不思議ではなかった。
「マリアさん、おなか減っちゃった」
テレビを見飽きたらしいカナがタイミングを計ったように顔を出す。椅子に座って後片付けをする雄太の姿をぼーっと眺めていた彼女は、カナの声に我に返ったようだった。
「あ、そうですね。わかりました、今作ります」
パタパタとあわただしく去っていくマリアの音を、雄太は奇妙な心地で聞いていた。
自分は、なぜ彼女を欲したのだろう…――
初期タイプのメイドロイド・マリアとの生活はさほど不自由を感じなかった。彼女は旧型とは思えないほどよく働く。時には生きているのではないかと疑うほど器用に感情を表した。アンドロイドが感情を表わすなど不思議なことだったが、さまざまなパターンを組み込まれその中で状況にふさわしい感情をピックアップできる今の時代、それは当然のことかもしれなかった。ただ、カナがどうかはわからないが、雄太はマリアのあの無機質な声色にだけは全く慣れないままだった。ああ、マリアはもうほとんど人間なんだ、そう思って接すると、まるで突き落とすかのようにあの機械音が聞こえてくる。その途端、雄太は甘美な妄想の世界から急激に現実へと引き戻されるのだ。美しい女性が自分の家で待っていてくれる、そういう世界から、その女性がただのロボットなのだという現実へ。
「どうよ、調子は」
久しぶりに出た電話は、中古店を紹介してくれた幼馴染、満だった。彼はからかうような口調で軽快に話す。マリアの声が脳内にこびりついていた雄太は、その人間らしい――もっとも彼は正真正銘の人間だが――満の声にひどく安堵していた。
「――カナちゃんがさ、マリアになってから雄太の様子が変だって心配してたぞ」
なるほど、合点がいった。普段雄太に電話はつながらない。ほとんど会議か作業で缶詰め状態で、電話に出る余裕などないからだ。仕事用とプライベート用に二つ携帯をもっている雄太は、重要な電話もある仕事用の電話は取れど、プライベートの電話はほとんど取らないでいた。そんな中わざわざかけてきたのだ、満との電話がつながったのは奇跡といっても過言ではなかった。
そして、それが妹のカナからの差し向けとなると、この電話を取れてよかったとも思う。
「使えないのか? マリア。旧型だし」
さばさばとした物言いではっきりと人間とアンドロイドとを区別している満は、まごついている雄太にたたみかけるように言った。
「他のと変えるなら俺、店主に言って交換してもらうぞ。似たような値段のと」
流れるように吐き出された言葉に、雄太は一瞬呼吸を忘れた。心のどこかが警報を発している。渡しちゃ、いけない。
「いや、違う。そうじゃ、ないんだ」
つっかえつっかえ言葉を発す。使えないんじゃない。彼女はよく働く。たぶん、これは、自分の問題。
「マリアは本当に良く働くよ。梓と変わらない、いや、それ以上かも。…変な話だが、梓よりも感情表現が豊かなんだ。だから、たまにわからなくなる」
深呼吸をしてから話しはじめると思いのほか流れるように言葉が出た。言っていいのか一瞬迷って、電話口で急かす声が聞こえた。「なんだよ、なにがわかんないんだ?」
「……彼女が、たまに人間なんじゃないかって思えるんだ。本物そっくりの動き。気づいたら目で追ってる。けど、声を聞いて思い知る。――ああ、アンドロイドなんだって」
吐き出すように言うと、電話の向こうは静かになった。ことりと、おそらく手にしたカップを置く音が聞こえた。彼が愛用して使っている猫の形のマグカップを思い出して、どこか別の自分がくすりと笑った。――あの猫のマグカップ、彼のメイドロイドがカナに勧められて送ったものだ。誕生日のお祝いに、何かあげなくちゃいけないみたいだけど何がいいんだろうって、困ったメイドロイドをカナが面白そうに雑貨屋へ連れて行っていたっけ。
「おまえ…」
不意に聞こえた声に一瞬どきりとする。想像したことが見透かされ咎められた気になって、誰もいないのに体をちぢ込ませる。非常に珍しいことに午後の仕事がオフになってしまい、とりあえず家に戻るとマリアはいなかったのだ。書置きには買い物に行くとだけ書かれていた。
「まさか、マリアに恋したとでもいうんじゃないだろうな」
「……は?」
ぐっとため込んだ後に囁くように問われた。思ってもみなかった返事に雄太は思わず間抜けな声を出してしまう。卓袱台の上でいじっていた車のキーがガチャリと音をたてて落っこちた。彼にそういうことを聞かれたことより、それに動揺している自分が雄太は不思議でならなかった。動揺している? なぜ? たちまち疑問は体中を埋め尽くしていく。満の声が耳の奥で響いていた。
「アンドロイドと人間の恋はご法度だぜ。というか、アンドロイド側にその手の感情は組み込まれてないから、お前が辛くなるだけだ。今なら変えられる、悪いことは言わないから、早めに変えた方がいい」
厳しい口調が鼓膜を突き抜けて脳に響いた。
「イマナラカエラレル」、何を? 誰を?
満の声は責めているようにも聞こえた。厳しい口調。足を踏み外しかけている己の友人を、必死につなぎとめようとする口調。しかしその声は雄太の中で反射して、反対側の耳から抜けていくだけ。何も入ってこない。浸透してこない。自分はいったいどうしてしまったのだろう?
「ただいま」
玄関のほうで聞き慣れた機械音が聞こえた。満がそれに気付き、すぐさまマリアに代われと言っていたが、呆然としていた雄太は構わずに電話を切った。卓袱台の上に転がった電話は、すぐさま着信音を鳴り響かせる。
「? 雄太さん、電話、なってますけど」
生きているみたいだ、雄太は心の中でつぶやいた。もはや電子音は気にならなくなっていた。言われて初めて気づいた。そうか、これは恋心なのか。この動揺も、機械音に戸惑ったのも、たぶん、そう、そうだったんだ。
「いや……いいんだ、マリア」
買い物袋を卓上にあげてガサガサとしまいはじめるマリアの背中に、聞き取れるか否かという音量でつぶやいた。電話が鳴り続けている。
「絶対に離さないから……もう、裸足で逃げさせたりはしないから……」
呟かれた言葉に、マリアが一瞬顔を上げ、雄太を見詰めていたのを、彼はとうとう気付かなかった。
「恋って、どういうものなんですか」
マリアが淹れた特製の好茶をすすりながらゆっくり読書を決め込んでいたカナは、突然発せられた言葉に思わず喉を詰まらせた。あわてて差し出された水を飲んで、本が汚れなかったかチェックする。壁を背にぺたりとくっつけた状態のまま、なんとか呼吸を落ち着かせると、目の前には真剣な表情のマリアが正座で座っていた。
「それって、どういう意味?」
アンドロイドは恋愛感情を抱かない。もし仮にそういう感情を抱いたとしたら、世の中が大変なことになるからだ。開発に開発を重ねるアンドロイド研究だが、ギリギリのところで、まだそういった性的なものは開発されていない。精神的な性の満足を与えるアンドロイドなら多方面にわたって開発されているのだが。
カナはマリアの次の言葉を待っていた。先の言葉は、彼女が恋をした故の言葉なのだろうか。それとも、恋愛感情を知らない故の言葉なのだろうか。
「私には恋愛感情がありません。だから、どういうものなのかな、と思って」
どうやら答えは後者のようだった。もちろん、それは当然であるべき事なのだけれど、マリアは今までそばにいたメイドロイドとどこか違っていた。旧式という割にまったく古めかしい感じを見せないし、本当に、声だけ変えてしまえば新型として十分売れそうだった。それだけではない。カナはある種の特異体質で、人種・人柄等によってオーラを感じ分けることができる。それはアンドロイドにも同様で、彼女はアンドロイドを前にすると刺々しい、刺すようなオーラを感じ取っていた。それが、マリアからは感じられない。前まで一緒に過ごしていた梓も棘のオーラを持っていて、慣れてくると多少はましになったが、マリアは始めから全くそんな気配がしないのだ。むしろ、柔らかで優しくて、広い海を持っているような。
「恋、かあ……そうねぇ」
だから、彼女なら恋愛感情を持っていてもおかしくないと思ってしまった。あまりにも人間らしかったから。
「ずっと、ずーっとその人の傍にいたくて、ずっと触れていたいって思ったら、きっと恋なんじゃない? あったかくてやさしくて、ぽかぽかした気持ち」
わかるかな、つぶやいた言葉にマリアは考えるように下を向いた。さらりと流れる黒髪、それを抑える自然な動作。本当にアンドロイドかと、声をあげて笑いたくなってしまう。
カナは時々、マリアの持つ深い蒼い海の中に飛び込みたい衝動に駆られる。彼女の海は球体で、その球体を彼女はいつもそっと優しく持っているのだ。球体の海の中にいれば何が起こっても安全、彼女がすべてを助けてくれる。深い深い蒼を見つめながら、海の中で一人たゆたう。そんな想像をしていくと、マリアに思い切り抱きしめてもらいたくなる。
これは恋なのだろうか、カナは思う。自分が出した「恋」という概念でいえば、自分は三人に恋していることになる。兄と、満と、マリアに。幼いころから両親のいなかったカナにとって、兄も満も血の繋がり以上の絆で結ばれた家族だった。ずっと一緒、永遠に一緒でいられると思った関係。やがて兄と満の進路が違えたことで、滅多に彼とは合わなくなってしまったが。その穴を埋めるかのように、マリアがやってきた。
「では私は今、恋、しているのでしょうか」
考えていたことをずばりと声に出されて、カナの体はびくりと震えた。正直に反応する体に少々苦笑する。マリアは続けた。
「私は、雄太さんといるととても心が落ち着きます。感情のデータの中に「安らぎ」はありますが、それは相手に与えるもので与えられるものではありません。借りに与えられても、そういう場面で表わす表情を作るだけで、「安らぎ」自体を感じることはないんです。でも、雄太さんの隣にいると、これが「安らぎ」というものなのかと思うときがあります。カナさん、私は、恋、しているのでしょうか」
じっと自分を見据えるその瞳に射抜かれてしまったようだった。動けない。真剣なひとみにどう答えればいいのかわからなくて、しどろもどろに目を泳がす。カナはわかっていた。それは多分、きっと、恋だ。そして自分のこの感情も、ひとしく恋なのだろうことを。誰かを求めて離したくないと思ったら、それは恋なのだ。恋慕、そう、その言葉がいいかもしれない。
しかしカナはまた、知っていた。ここで頷いたら、自分たちの関係が崩れてしまう。雄太がマリアに好意を寄せていることなど、彼女が来た当初から自分にはわかりきっていた。彼女の本質と声のギャップに戸惑いを見せる雄太を見るのはなかなかおもしろかったと、あとで雄太に言ってやるつもりだった。彼が、その気持ちを自覚した後に。けれどどうだろう。現実は、彼よりも先にマリアが己の感情に気付いてしまった。アンドロイドならば生まれるはずのない新しい感情を、どうやら雄太は生み出してしまったようなのだ。これは非常にまずいことだった。世間に知られたら大変なことになる。カナは眉間にしわを寄せた。
「カナさん?」
屈託のない顔でそう言われたら、何か言わなければと焦ってしまう。カナは残ったままの紅茶を一気に飲み干して、手にしていた文庫をばたんと閉じた。
「マリアさん、聞いて」
言わなければならなかった。正しいことを、正しく教えなければならなかった。どんなに精巧に作られて自分より能力の高いアンドロイドでも、この問題に関しては赤子と同じなのだ。
「たぶん、マリアさんは、兄貴に恋、してるとおもう」
口に出して言うと、それはまるで神聖な儀式のようだった。
三人の関係がどことなくぎくしゃくし始めたのは、ちょうど、お互いがお互いに対する気持ちを自覚したころだった。同居というよりは共同生活を行っているカナと雄太は、すれ違うことが多いのでまだいい。しかし、一日中家にいるマリアと、カナは何かにつけ顔を合わせなければならなかった。そしてそんなとき、彼女の苦しそうな表情を見るとどうしたらいいのかわからなくなる。赤子になった彼女を育てているのは自分と、雄太だ。彼はそんなこと知りもしないだろう。彼女と同じように、吐露してはいけない感情に戸惑っているだけ。彼女もまた同じように戸惑っているなど、彼は知りもしないだろう。
「カナさん」
やさしくマリアが名前を呼ぶ。カナはびくりと体が震えるのを感じた。近頃から、マリアの持つオーラはあの優しく深い海ではなくなった。同じ蒼い海でも、球体の海でも、その中は荒々しく波が躍っていた。
「今日は、雄太さんは」
最近マリアが自分に向けて話すのは、雄太のことがほとんどだ、とカナは思う。雄太は雄太で感情を抑えようと、あまりマリアを直視しないようにしているのだろう。思い合いながらすれ違っている二人を間近で見ている身としては、それは歯がゆく、そしてとても悲しい事実だった。
「わかんない。でも今日は土曜だから、ちょっと早いかもしれないね」
手伝うよ、といって、台所に立っているマリアの横に立つ。彼女はいまだ自分の感情を処理しきれていないようだったが、それでも、カナはマリアを母のように思っていた。
昔から、雄太は兄というより父だった。父というより母だった。自分に必要なすべての役割を、雄太は満の手を借りながらこなしてきたのだ。しかし、幼いころ感じた彼の母らしい面影とかは、自分の成長と彼の成長とともに全く見えなくなってしまった。それがどこかさびしかったのかもしれない。初めてメイドロイドを買うと雄太が明言したとき、だからカナは母ができたような気持だった。
アンドロイドが家族になりえないということはよくわかっているつもりだった。こちらがそういう感情を抱いていても、アンドロイドに同じ感情は生まれないのだ。あるのは登録された主人たちへの絶対服従だけ。もしくはそれは国家に対してか。すべてのアンドロイドには国家の捺印がつけられていた。その印はアンドロイドが法に違反する行為を行うことを禁止させ、政府の命令を従順に聞くようにさせる。カナは梓が細かなことにでもきちんと規則を守っていたのを見て、ひどく悲しい気持ちになったのを覚えている。
「今日の夕飯はなあに、マリアさん」
「ふふ、雄太さんの好きなコロッケと、カナさんの好きなコンソメスープ」
「わぁ、やった! 兄貴も喜ぶよ!」
何気なく放った言葉だった。しかしその一言だけで、マリアの頬はみるみる紅潮し、口元が嬉しそうに緩み始める。ああ、やっぱり恋してるんだ、人間と同じように。間近で見たカナはぼんやりとそう思った。
後悔する気はない。反省もしていない。むしろ誇りたい気分だった。その感情を彼女に植え付けたのが己の兄で、育てているのが自分だと思うことが、カナを酷く満足させた。
「……カナさん」
頬を赤らめたままコロッケに衣をつけていたマリアは、おなじみの機械音で囁くように声を出した。
「なんですか、マリアさん」
まるで内緒話みたいだわ、誰もいない家なのに。思いながら同じように囁き声で返す。マリアは少し恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに、
「私、きっとカナさんにも恋してるんだわ。カナさんと一緒にいられるのが、とても嬉しいの」
ぽつりと呟くように吐かれた言葉が、カナの脳裏に衝撃を与えた。
その衝撃は大きかった。ガツンと金属バッド三本くらいで殴られた感じ、それほどにきつかった。この女は、アンドロイドであるはずの女は、本当に、本当に、アンドロイド?
動揺を読み取ったのか、心配そうにマリアが顔を覗き込む。ふ、と額に手があてられて、彼女の機械とは思えない温かみを持つ手のひらに冷や汗が出る。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですけど…熱はないみたいですね。三十六度三分ってところです」
その、人間みたいな動作で、人間みたいな言葉を発しながら、機械じみた発言をするのはやめてくれ。
ああ、雄太はこんな気分だったのかなとカナは思った。今自分はまさに、そういう気分だ。アンドロイドと人間のちょうど狭間に位置してしまったマリア。マリアの恋を育てる? とんでもない、そもそもマリアに恋してしまっている自分には、そんなこと到底無理だった。大丈夫、もう大丈夫だから。その一言を発するのにひどく時間を要して、カナはよろよろと台所から抜け出した。
「ごめんね、ちょっと体調悪いから、今日はもう寝る。スープは残しといてくれると嬉しいな」
心配そうにこちらを見る彼女に、よろけながら力ない声で言う。アンドロイドは主人たちの行動を止めない。心得た、というように小さくうなずいたマリアを見届けてから、カナはようやく足を進めた。
信じられなかった。なんで、どうして、疑問ばかりがぐるぐる回る。
何であんな風に作られてしまったんだろう。ただそのことが悲しくて、布団をかぶりながらカナは一人泣いていた。だってかわいそう、あんなに精巧に作られて、人間みたいに作られて、……そりゃ、声はちょっと機械じみてるけど、新しい感情だって芽生えちゃうくらい人間に近いのに。そう、どんなに人間に近くたって、彼女がアンドロイドであることに変わりはない。変わりがないことが、悲しい。
なぜ、マリアは人間ではないのだろう。
なぜ、アンドロイドなんてものができたのだろう。
なぜ?
マリアが他のアンドロイドと違うことなど、一目見た時から知っていたではないか、カナは思う。彼女は始めから特別で、ゆえに、引き取り手がなかったのだと。雄太の話では、今まで何度も売り買いされてきたが、結局戻ってきてしまういわくつきのアンドロイド、らしいが。実際それが本当かなんてわからない。カナは一つの仮説を思い浮かべていた。
「だめだ、そんなこと。絶対に、ダメ」
自分の仮説通りだとしたら、いったいマリアはどうなってしまうのか。マリアだけではない。雄太や自分はどうなってしまうのか。気づいたら彼らの中でマリアは多くの割合を占めるようになっていた。もう、それがないと成立しないくらいに。
依存だらけの兄妹だよ、泣きじゃくりながら叫びたくて、ごまかすように呟いた。しかしどうすることもできない。しがらみを解くには、仮説に基づいた行動を起こすしかないのだと知っていた。
枕が涙でぬれていくのを見ると、少し落ち着く。いつもそうだ、いじめられて一人部屋で泣いていた時、怒られて落ち込んでいた時。いつだって慰めてくれたのは、枕に着いた涙のしみと、大きな兄の掌だった。マリアにはない、あの掌。
自分は何を求めていたのだろうと考える。マリア? 兄? それとも、満? 小さい頃、兄と満が夜中にこっそり出かけるのを知っていた。気になってある時言った、「カナも一緒に連れてって」。彼らは互いに共犯者めいた笑みを浮かべると、緩く首を振って厳しく言ったのだ。
だめだよ、これはぼくたちおとこだけのひみつだから、かなちゃんにもいえないんだ。
その拒絶の言葉は苦しくカナを締め付けた。どうして、どうして、カナは男の子みたいってよくいわれるよ。ねえ、つれてってよ、おにいちゃん、
お に い ち ゃ ん
はっとして顔を上げた。涙の染みからこんな昔の記憶が引きずり出されるなんて思いもしなかった。ああそうだ、それから自分は兄を「お兄ちゃん」とは呼ばなくなったのだと、今ようやく気がついた。そうか、そうだったんだ。カナは思う。自分の人生は、今まで生きて来た年月は、すべてそこに直結しているのだと。そしてそう思ったとき、彼女は一つの決意を胸にともしていた。許しはしない、きっと自分は、恋い焦がれるけど許しはしない。
わたしはきっと、まりあをすてるだろう。
マリアの様子がおかしいことに雄太はうすうす気づいていた。自分の彼女に対する行動がぎこちないのは自覚していたが、どうやら彼女もそうらしかった。そしてそのことに気付いた時、雄太はある種の感動を覚えていた。
それはたぶん賭けだった。この感情が恋なのかそうでないのか、おそらく、次に彼女を直視できた時にわかるだろうと。しかしそれを知るのが怖くて、雄太はなかなかマリアを見ようとしなかった。わざと残業を増やしたり、彼女がよくいる台所にはいかないようにしてみたり。どうしても家にいなきゃいけない時は、最悪、腹を下してトイレにこもっているふりさえした。
ただ、怖くて直視できなくなればなるほど、マリアを恋い焦がれている自分に気がついた。そして、それが答えだと雄太は直感した。
ああ、自分は恋をしている。改めて自覚してみると、それはひどく滑稽だった。そして、必然のようにも思えた。
まるで一目ぼれのようにして買ってきたマリアだ、彼女に恋愛感情を抱くのはもっともかもしれない。どこかでもう一人の自分が囁いている。
彼女だって満更でもなさそうだぜ、ほら、また、僕が彼女から目をそらしたのを、あんなに苦しげな瞳で見ている。
拷問のようだ、と雄太は思った。なぜこんな思いをしなければならないのだ、恋をして、なぜこんなつらい気持ちにならなくてはならないのだ。友人の言うことがもっともだと、雄太は言われずとも知っていた。アンドロイドと恋はできない。アンドロイドにその気がないからだ。求めた方の負け。勝敗の見えている勝負をあえて挑む気にはなれない。
毎日が地獄のような天国。マリアがいてカナがいて、皆で笑い合っている。それを崩してはいけない。自分の感情一つで、崩していいものではない。必死に抑えようと思えば思うほど、しかし彼の気持はマリアへと傾いていくのだ。
「あの、雄太さん」
深夜に帰った雄太にひっそりとした機械音で声をかけたのはマリアだった。恋だと自覚してから、雄太はこの機械音を心地よくさえ感じるようになっていた。ただ、たまに、彼女がアンドロイドであることを突き付けられて、絶望の淵に追いやられることはあるが。
「なんだい、マリア」
何でもない風を装いながら振り向くと、彼女は恥ずかしそうに手を前で合わせ、やや青ざめた顔でつぶやいた。
「私、だめなんです。もう、抑えきれません」
アンドロイド失格です、彼女はそう続けた。
突然の告白に、雄太はしかしどう答えたらいいかわからない。何が抑えられないというのだろう? しかしその答えはすぐに返ってきた。それも、思わぬ場所から。
「だめだよ、マリアさん。言っちゃダメって言ったでしょう? 私も一応主人だよね、主人の言うこと聞けないの?」
いつの間にか雄太の向う先に立っていたカナが、電気の落とされた暗がりでぼうっと立っている。声にびっくりしてカナを見ると、彼女は幽霊のようにゆらりと揺らめきながら一歩近づいて、はっきり顔が見えるようになると、にこりとやさしく微笑んだ。
「おかえり、遅かったね」
なんでもない、普通の言葉。しかし先ほど感じた恐怖がぬぐえず、雄太は声を出すことができなかった。ぱくぱくと口を開けたり閉じたり。そのすきに、背後にいたマリアがゆっくりと雄太の前に出た。
「カナさん、カナさんは確かに私のマスターですが、メインマスターではありません。サブマスターの命令は、ある程度なら無視できます」
だから、話します。耐えられないんです、もう。
何だ、何が起きるんだ。事態の中心にいて、それでいて雄太は何もわからなかった。ただマリアとカナを交互に見つめ、口を開いて閉じるだけ。
「……じゃあ、兄貴、話すなって言ってよ。言ってよ、はなしちゃダメなんだから!」
呆然として自分とマリアを見つめ続ける雄太に向って、カナはいらいらと言った。まるで心からの叫びに聞こえ、雄太は耳を疑う。
えっ 離しちゃダメ?
本来の話の流れならば「話すな」が正しいだろうが、雄太はなぜか「離すな」と聞こえた。いったい何を、誰を、離してはいけないんだろう。そこで初めて、カナの瞳が何か暗いものでぎらぎらと光っていることに気がついた。カナが誰かを心の底から憎んでいる。――一体誰を? カナは、その人を離すなと言ったのだろうか。否、違う、そうじゃない。でも、では誰を?
瞬間的に浮かんだ疑問は雄太の決断を鈍らせた。アンドロイドであるマリアに忍耐力が持たない出来事なんてそうそうあるはずがない。彼女はいったい何を話したがっているのだろう。それは純粋に機体への興味もあったが、むしろ彼女を一個人としてみた、彼女自身に対する興味のほうが大きかった。
そして好奇心は、カナの悲痛な叫びに打ち勝つ。
「話して、マリア。何が、そんなに辛いんだい?」
言葉を発した瞬間、マリアの安堵した顔と、カナの絶望した顔が酷く印象的だった。二つの異なる表情は、しかしまったく同じようにも見えた。マリアは安堵しながらも、どこかで深く絶望していた。また、カナは絶望しながらも、どこかでほっと安堵していた。
二人が何かを隠している。その一方は、マリアの口から直接わかるわけだが、雄太はカナの持っている秘密がマリアのそれと同じとは思えなかった。
何か、深く、深いところにあるような――それでいて、とても身近にあったような気がする、カナの秘密。マリアの告白ののち、カナはそれを話してくれるのだろうか。
「……もういい、寝る」
絶望の表情を浮かべたまま踵を返した彼女を、雄太は肩をつかんで引きとめた。自分よりも小さくて、小柄な体がびくりと震える。
「まって、ねえ、聞いてあげて。一緒に、一緒に聞こう? カナは知ってても、僕は知らない。僕たち家族だろう」
家族、その言葉にカナが顔を歪めたのを雄太は知らない。ただ次の瞬間、振り返った加奈の顔にもう絶望も歪みもなかったから、雄太はすっかりカナの機嫌が戻ったのだと思い込んだ。
「わかった、兄貴が言うなら、そうする」
まるでマリアが二人いるみたいだな、心の中で苦笑して、雄太は二人を促した。ようやく電気がついたリビングで、三人で卓袱台を囲んでぐるりと座る。――こうしていると本当の家族みたいだ、僕がお父さん、マリアがお母さん、カナは僕たちの娘。愛しい愛しい、僕の娘。
「じゃあマリア、話してくれるかい」
落ち着いた声で尋ねると、マリアは小さくうなずいた。人間のそれとほとんど変わらない唇がゆっくり開く。カナはそれをスローモーションの映像で見ている気分だった。
「実は、私……」
機械音がたどたどしく言葉を紡ぐ。その言葉は、心地よい関係に終止符を打つ、破滅の呪文でもあった――
そこは夢の中だった。なぜそうわかったのかわからない。ただ数日前の出来事が夢の中で繰り返し、繰り返し。押し寄せてくる黒い装備の男たち。後ろに控える白衣の女。彼女の姿がマリアにそっくりだったのが印象的で、雄太はじっと彼女を見ていた。
それはマリアの独白から二日経った夜だった。マリアは話したことですっきりしたのか、若干照れた表情を見せながら楽しそうに声をかけてくる。雄太はそれにどう反応していいか迷いかねていたが、カナはあれきり、機嫌を悪くしたままだった。
「雄太さん、今日は早いですね」
帰宅すると出迎えてくれるマリアに苦笑いのような顔を見せて、リビングでカナが仏頂面のままテレビを見ているのを眺める。幾分カナがそわそわしているように見えるのは気のせいだろうか? 血のつながった兄妹の経験をフル活用して、雄太は彼女をじっと見つめた。
「どうかしましたか?」
マリアがそれを不思議そうに聞いてくる。今日の夕飯はロールキャベツ。食卓に並べられた皿からおいしそうな湯気がのぼっていて、マリアがカナに声をかける。
「お夕飯、できましたよ」
カナの体がびくりと震えた。そして雄太は、それを見逃しはしなかった。
「……カナ」
声をかけると彼女はひどくうろたえたようで、ゆっくりとした動作で自分を見返す。雄太は幼い頃からの彼女の癖を思い出して、小さなため息をついた。
「何を隠しているんだい。今晩、何がある?」
感情が表に出やすいのはどうやら自分だけではないらしい、カナの明らかに動揺している様子を見ながら、雄太は思考の端でそう思った。カナが何かたくらみ、隠している時、彼女はいつも機嫌の悪いふりをしながら、一つ一つのことに過剰に反応する。わかりやす過ぎる反応に微笑ましく思った時期もあったが、直感的に、今回はそういう気分になれなかった。
「何も……何も隠してないよ」
カナは目線をやや下に下げて、ゆっくりとした口調で言った。正解の合図。マリアが不安そうに状況を見守っているのが視界の端に見えて、はっとなった。
「まさか……マリアに関することか?」
思わず強い口調で問いかけると、カナの顔が勢いよく上がり酷く絶望した表情を見せた。マリア、雄太の口からその言葉が出ただけで、ひどく苦しそうな表情をする。
「知らない…知らないってば! 私は何もやってない!」
その言葉がマリアの独白の時に聞いた叫びと同じ、心からの悲痛な叫びに聞こえ、雄太はうろたえた。どうすればいいのだろう。どう、選択すればいいのだろう。結果によってはカナがどこかへ行ってしまい、二度と戻ってこない気がした。だから、どう声をかけたらいいのか、雄太は困惑していた。
「カナ…さん?」
す、と前に出たマリアがカナに声かけながらその額に手をあてた。触れた途端に体をびくりとさせたカナは、逃げ出そうともがく。しかし割と本気でおさえているのだろう、マリアに掴まれた片手のせいでカナは逃げ出せないでいた。
「心拍数が異常に上がってますね。熱はありません。三十六度七分くらいです。カナさんの平均体温は三十五度八分くらいですから、やや高い方かもしれませんが。体が一気に熱を帯び始めています。風邪ではないですが…精神的なものだと思います」
淡々とした機械音がカナの体の状態を述べた。カナは二度目だが、初めて見た雄太は一瞬呆然とした顔になって、マリアが振り返る頃には元の顔に戻っていた。雄太が意識的に表情を戻し、心配かけまいとしたのだ、とカナはふてくされた。いつからか、兄の中の自分の場所がマリアに侵食されていったのだとカナは思う。だから自分はこんな選択しかなかったのだ。
わたしもまりあをすきだったよ でも おにいちゃんはわたしのものだったのに
そんな時だ。異様な光景の中で、チャイム音が高らかに響いた。場の緊張を引き裂くその音に、カナの体がびくりと震える。
「こんな時間に、誰でしょう」
マリアがようやくカナの手を離し、インターホンに向かう。その様子をぼんやりと眺めていた雄太は、カナが勢いよくリビングから逃げ出したのに気付かなかった。
「はい、足立ですが」
3Dの立体映像が壁に取り付けられたインターホンから浮かび上がる。そこには白衣の、マリアによく似た女性が仁王立ちしていた。向こうにはこちらの様子はわからないはずだが、彼女は声で出たのがマリアだと判断したのだろう、苦々しげに表情をゆがめ、
「私は日本機械人形開発機関、JADОのMARIAシリーズ開発委員室長、高西麻里亜だ。足立雄太殿が所有するメイドロイドについて、お話したいことがある」
胸ポケットに入れていたらしいJADOの室員証を見せると、淡々と言い放った。マリアの体がぴくりと硬直したのがわかった。雄太はあわててマリアを押しのけ、一階ロビーのロックを解除する。
「どうぞ、部屋は三○五です」
「了承感謝する」
ぴ、と軽い機械音とともに立体映像が消滅した。立ち尽くしたままのマリアの肩を抱いて、やさしくさする。
「大丈夫、君を回収に来たわけではないよ」
どんなことがあっても守るよ、だってそう、誓ったんだ。自分の気持ちを知ったあの時に。
心の中でつづけながら、雄太はマリアの顔を盗み見る。しかし彼女はインターホンに出た状態のまま、どうやら本当に硬直してしまったようだった。こんなこともあるのかと、重い機体をやっとのことでソファに座らせると丁度玄関のチャイムが鳴った。
「はい」
声を出しながら玄関に向かう雄太を、マリアは動けぬ状態で思考だけで判断していた。
(違う、ダメ、もう遅いんです、雄太さん。あの人が来てしまった。私は、もう、ここにはいられない)
口が動かない、なぜだろう。身体機能が一時的にショートしている。これも「感情」によるものだろうか? そんな考えを巡らせながら、マリアは扉の開く音を聞いていた。
「僕が足立雄太です。うちのマリアについての話だそうですが、用件はなんですか?」
雄太が警戒して扉を開けると、立っていたのは先ほどの高西という女一人だった。彼女はマリアより若干背が高く、顔立ちは似ているが幾分年を感じる。黒い長髪は後ろでポニーテールにされており、気の強そうな印象だった。
「突然の訪問で申し訳ない。私は高西麻里亜だ。長い話になるんだが、入れてもらっても?」
挑発的な瞳で高西は言った。雄太は思わず唾を飲み込んで、無理やり笑顔を作って彼女を通した。マリアの方にちらりと視線を向けると、ソファに座ったまま動く気配がない。まだ硬直から抜け出ていないようだ。どこか悪くなったのかと一瞬思考を巡らせたが、いくら精密機械といえどそんな簡単には壊れないだろう、と勝手に結論を出す。今までだってどんなにショッキングなことにも冷静に対応できていたのだ。自分が生まれた研究所からの使いが来たから、少々驚いているだけだろう。
「どうぞ」
リビングに通し、マリアの向いのソファに座るよう促す。高西が怪訝そうな顔でマリアを見たので、「あなたが来たことにびっくりしたらしくて、硬直状態なんです。治し方がわからないんですけど、もしかしてわかります?」高西はひきつった笑顔で顔を横に振った。
「さて、お話ですが」
お茶を出して雄太が座ると、彼女は早速切り出した。
「匿名で、この初期MARIAが恋愛感情を抱いているようだ、との報告があった。アンドロイドに自主的な感情が生まれるなど前代未聞。ぜひ、うちで研究させてほしい」
高西の話し方はひどく淡々としていた。ある意味で話し方までマリアに似ているな、そう思った雄太は内心苦笑した。おかしい、マリアがこの高西さんをモデルにして作られたなんて。
「それは……無理です。僕はまだ二十三の若輩者ですが、一応ゲームのプログラミングなんかをやってたりします。不規則な生活に、両親はいません。妹はまだ中二なんです。今、メイドロイドがいなくなると、非常に困ります」
動揺していたのか、思うように喋れない。拙い話し方で、しかしなんとか現在の状況的にマリアがいなくなるのは困ることを告げると、高西は不敵に微笑んだ。
「それならば問題はない。代わりの機体をこちらで用意しよう。最新モデルのMARIA02だ。旧MARIAをもとにして作り、会話機能・感情表現・服従度等の従来の問題をすべてクリアさせた完全体だ。実用化に向けてのテストを兼ねさせてもらいたいから、費用はすべてこちらで負担する」
さあ、問題は解決した。そう言いたいかのように高西は笑い続けていた。きつい雰囲気のする高西が笑顔を浮かべ続けているのはひどく気味が悪い。その笑顔が明らかに営業用だとわかるのも原因なのだろう。マリアと同じパーツなのに、なぜこんなにも雰囲気が違うのだろうと雄太は思った。
「ですが…そんな、高性能のものを頂いても……いまのマリアの性能で十分満足していますし、感情表現もほかのメイドロイドと比べたら格段に人間らしいですし……そうですね、言い方が悪かった。僕と妹に必要なのは、メイドロイドじゃない。マリアです。マリアを取らないでください」
とってつけたようにカナの存在を匂わせたのは、ただの自己防衛だった。マリアが好きだという気持ちをこの人に知られてはいけない、雄太は本能的にそれを知っていた。瞼を一度パチリとさせたマリアを確認して、ようやく硬直がとけてきたのかと安堵する。渡してなるものか、それだけがぐるぐると渦巻いていた。
「では聞くが、マリアは誰に恋している? 我々は日本機械人形規定条例に基づいて、アンドロイドの恋愛を阻止しなければならない。マリアの恋の相手がこの家にいるならば、どんな事情があろうとマリアはこちらで回収する」
ぐらりと視界が揺れた。だめだ、悟られては、だめだ。
ちらりとマリアを見ると、ようやくぎこちないながら動けるようになったマリアが瞳だけ雄太を見詰めた。大きなリスのような瞳を見ながら、なんとかして彼女を守る方法を探る。
「では、マリアの恋愛感情が消えてしまえば、マリアは今まで通りこの家で家事を行っていいんですか?」
「結果的にはそうなるな……と言いたいところだが、どんなことになろうとこのマリアは回収させてもらう」
「なぜ!」
めちゃくちゃな決定に雄太は思わず身を乗り出した。思わず力強く叩いたちゃぶ台の上で、持ってきた紅茶のカップがガチャリと音を鳴らした。
「それは機密事項だ。民間人には教えられない」
高西は勝ち誇った顔をしていた。権力の差だ、雄太はそう言われているような気がして、彼女を睨みつける。
「……回収した後、マリアはどうなるんです」
もはや怒りで体が震えていた。小刻みに震える体をマリアが心配そうに見ているのがわかった。そして、その瞳の奥で彼女がどうしようとしているのかも、なんとなく悟ってしまった。その判断に雄太は愕然とする。
「スクラップだ」
ただ裁判で死刑宣告を受けるような気分で高西の言葉を聞いた。一瞬の思考停止。顔をあげる。
「え? ……だって、マリアを研究したいんじゃないんですか?」
聞くと高西はにやりと笑った。意地の悪い、マリアの顔でそんな表情を作らないでくれ、雄太は泣き叫びたくなった。
「もちろん、あらゆる所を研究し、どのようにして自我の感情が芽生えたのか探ったあとで、のこと。結果論でいえば彼女は百パーセントゴミ箱行きだ。変更の余地がない」
そしてそれはまさしく死刑宣告に等しかった。呆然となった雄太を見ながら、マリアは声を上げた。
「あ! あの! 私、恋愛感情なんて抱いてません! 恋するって、ど、どういう気持ちですか! それがわからないのに、恋愛感情なんて抱けません!」
マリアは機械音のまま力強く言った。しかし焦っているのが手に取るように分かる。高西が楽しそうに口元をゆるませた。しかし目が細められただけで笑っていないのを、雄太はまた、眺めていた。
「ほう……? そんなはずないだろう? MARIA―N1G2119、製品番号0001。お前が一番よく知っているはずだ」
高西は変わらず楽しげな様子で言った。思わぬ発言に、雄太はえ、と声を出した。
「マリアの製品番号、初番なんですか!?」
製品番号が0001ということは、つまり、一番最初に作られたオリジナルということになる。雄太は混乱したまま尋ねた。
「でも、MARIA―N1G2119が販売されたとき、製品番号は0001αからでしたよね…? マニアの友人から聞いたんですが、0001番は国の規制により販売できなかったって。だから、改良したαが初番に変わったって。マリアが初番なら、αなのでは……」
マリアが気まずそうにうつむいた。高西は珍しいものでも見るかのような目で、楽しげに雄太を見つめている。今度は本当に楽しげだ、まるでマリアが自分とカナのやり取りを見て微笑んでいた時のように。思って雄太はむなしくなる。そうだ、カナはどこへ行ったんだろう。
「これは意外だ。詳しいな。そうだな、せっかく呪われた記念すべき初番を手に入れた青年だ。理由くらい話してもいいだろう。なあ? 0001?」
高西が片眉をあげてマリアを見た。番号で彼女を呼んだことに雄太は思わず殴りかかりそうになったが、すぐさま察知したマリアに気付くと腕を握られていた。どうして、疑問が脳裏によぎる。彼女の瞳は色を失っていた。
「どうぞ」
声が震えていたように感じたのは気のせいだろうか? 次に雄太がマリアの瞳を見た時、そこには色が戻っていた。
「アンドロイドがなぜ人間になれないか、知っているか? 技術的な問題じゃない。そんなもの、初期MARIAを開発した時点でとうの昔にクリアしている。なぜアンドロイドが人間になれないか、彼らの反逆を阻止するためだ! 自我が目覚めれば人間より下の地位においてこき使われることに疑問を抱く。なぜ自分だけ、自分の方が優秀なのに、とな。しまいにゃ国家が取られる。だからだ! 初期MARIAは偶発的に自我を持っていた。感情プログラムなんてちんけなものは必要ない。彼女の表情はすべて彼女自身が作り出したもの。初番がなぜ廃止になったのか、国からの規制だよ! 国家反逆の恐れがある異分子は早急に取り除けとな! しかしスクラップの可能性を知ったMARIAは信じられんことに自分で逃げ出した。そのまま行方知れずになり、改良版の販売を迎えたわけだが……まさか、自分とおなじ姿の改良版を利用して、自分まで改良版のふりをしているとはな」
マリアの体が強張ったのを、雄太はつかまれた腕から感じ取った。この強張り方は緊張か、恐怖か、歓喜か、それとも絶望か。おそらく全てだ、雄太は思う。詳しい説明なんて知らない。彼女の体がどうなっているのかも知らない。ただ、今までずっと感じてきた違和感がようやく拭えた、それだけだった。
「初期MARIAのマスターがこんな強情っぱりではしょうがないな。強硬手段を取らせてもらう!」
言うが早いか、高西は高らかに手を挙げ指を鳴らした。軽快な音とともに部屋の中に黒装備の男が大量に押しかけて来る。やめろ、やめろ! 叫べども声は届かない。マリアにも、高西にも。マリアはあっという間に行動停止ボタンを押されて機能を停止した。感情がある、自我を持っているといっても、体はアンドロイドだ。ボタン一つで電源を落とし、ボタン一つで記憶をなくす。人間とアンドロイドの狭間で一番苦しんでいたのはマリアだったんだ、雄太は今になって思い至った。
「まりあ!」
声の限りに叫ぶと、黒装備に守られてリビングの扉を抜けようとしていた高西が振り返った。
「人の名前を気安く呼ぶな。下衆が」
嫌味な笑顔でそう一言。彼女が「行くぞ」と小さく声をかけると、瞬く間に黒装備は出て行った。マリアを小脇に抱えて。物のように抱えて。
「人の……名前……?」
そこで雄太は、最初のあいさつで彼女が名乗ったことをようやく思い出した。
――「私は日本機械人形開発機関、JADОのMARIAシリーズ開発委員室長、高西麻里亜だ」
高西がマリアに似ていたんじゃないい、逆だ、雄太は気がついた。
マリアは高西麻里亜をモデルに作られたんだ。
夢は高西の不敵な笑顔で終わる。自分の叫び声が遠のいていくのを感じて、雄太はゆっくりと瞼を開けた。寝汗が酷い。べっとりと絡みついた布団と寝間着が鬱陶しい。JADOから代替の機体は届いていない。あんな別れ方をしたのだ、届くかどうかも疑問だった。
「兄貴?」
自室の扉がノックされて、珍しいな、と雄太は思う。マリアが去った後、カナは雄太と一言も口を利かなかった。マリアがいないことにカナもショックを受けているのだと、雄太は勝手に解釈していた。
「なんだい? 入っていいよ」
枕もとに放り投げられていたタオルで簡単に体の汗を拭いて、雄太はベッドに座りなおした。
「ごめんね、朝早く」
昨日も兄貴遅かったのに、カナはいろいろ並べながら入ってきた。見ると彼女は昨日の服装のままだ。そのまま寝たのだろうか、雄太は一瞬考えて、すぐにやめた。カナの顔を見れば彼女が眠らなかったことなど一発でわかってしまったからだ。泣きはらしたような赤い瞳に、目の下には隈ができている。大分濃いその隈は、昨日どころじゃなくここ数日間そんなに眠っていないことを指していた。
「構わないよ。なんだい」
できるだけ刺激しないように、やさしい声を出す。カナの滅入った様子を見て、どうやらマリアがいないことだけがショックだったんじゃないとの判断からだった。しかし雄太の声を聞いて、カナはますます顔を歪ませ、今にも泣きそうなほど辛い表情を浮かべた。
部屋の中央にのそのそやってきたカナは、雄太の勉強机の椅子を勝手に引っ張って腰かけると、一度大きく深呼吸。その大げさな様子に雄太も緊張を隠しきれない。
「あのね、マリアさんのことなんだけど」
カナはそう切り出した。予想していた切り出しに、雄太は無言でうなずく。
「私が……私が、通報、したの」
そしてそのまま思考がショートした。カナは雄太の様子に気づかないまま続ける。
「マリアさんに、自分は恋をしているのかもしれないって言われたとき、すごく動揺しちゃって…マリアさんに恋の自覚をさせたのは私だ。でも、私は兄貴がマリアさんのこと好きだっていうのも知ってた。見る目が違ってたもん。だから、これでいいんだって、思ってた」
カナは淡々とした口調でつづけた。うつむいた顔から表情は見えない。彼女が今どんな顔をして話をしているのか雄太はわからない。どんな気持ちでマリアが連れ去られたかもわからない。どうして体が動かなかったのかもわからない。いろいろなことがフラッシュバックして、わからないことだらけで、雄太はぎくりと体を揺らした。
「でも……だんだん、兄貴の中のマリアさんが大きくなっていくのがわかって…私、嫉妬した。マリアさんを憎んだ。だから……!」
「だから、彼女をゴミ箱に捨てたのか」
雄太は震える声でカナの続きを取った。カナの体がびくりと震える。ようやくあげられた顔には明らかな怯えと恐怖が映っていたが、今の雄太には関係ないことだった。
「カナだって…カナだって、マリアを慕っていただろう? なのに、なんで? 僕か? 僕が、マリアを好きになったからなのか? 僕が好きになったから、マリアはゴミ箱に捨てられたのか?」
何を考えているのか、何を言っているのか、自分でもよくわからなかった。ただ失った、それだけが残っていた。喪失感が体中を支配する。こんな風にしたのは誰だ。一体誰だ。
「カナがマリアに嫉妬? 何で? カナは妹だ。唯一血のつながりのある家族だ。なぜ、マリアに嫉妬する? 僕の中のカナの場所? マリアの場所? どっちが大きいかなんて僕にもわからないよ」
雄太はただ淡々と述べていた。動揺している。それははっきりとわかっていた。普段いろいろな感情がすぐ表に出てしまうのに、どうしてこういうときは感情を吐露できないのだろう。何かにストッパーをかけられているかのように。
「カナは、僕が、好きなの?」
その質問が家族としてではないことくらい、わかっていた。雄太の視線とカナの視線が混じり合う。カナの瞳が何か強い意志を宿した。それまでの小動物的な印象が消え、ゆっくりと睨みつけるように雄太の顔を見た。
「好きだよ。ずっと、ずっと昔から。お兄ちゃんと、満君が、私の世界のすべてだった」
おにいちゃん
その言葉を聞いた時、雄太は懐かしいようなこそばゆいような、奇妙な感覚に陥った。一瞬マリアのことが吹っ飛んで、泣きじゃくるカナの顔が浮かび上がる。そして思い出す。あれは幼い日のこと、夜出かけていく自分と満の姿を追ってやってきたカナを。仲間外れにしないで、一人にしないで、置いていかないでと泣きじゃくったカナを。……それから、カナが自分のことを「お兄ちゃん」とは呼ばなくなったことを。
「そっか……」
長い思考を終えて、ようやく口から出たのはその一言だった。カナが雄太を見つめている。瞳の奥に潜む闇色の部分が、雄太を睨みつけていた。
「……私、マリアさんが普通のアンドロイドじゃないって気づいてたの。兄貴もそうでしょ? だから好きになっちゃったんでしょ? だから、兄貴のことが好きだって言われて、初めはすごく嬉しかった。でも、私は兄貴のこともマリアさんのことも好きだけど、兄貴の方が大事だから。だから、仮説を立てたの」
カナははっきりした口調で言った。
「マリアさんは、破棄されたはずの初期MARIAオリジナルなんじゃないかって。そしたら、何かでどこかからJADOがやってくる。マリアさんを破棄するっていう。でも、もしその時、マリアさんと兄貴が幸せになってたら? そんなの耐えられない。だから壊した。誰かに与えられる破壊なら、いっそ私が作ろうって。そう思ったら、私…私……」
一息で吐いた言葉を再び吸い込むように、カナはもう一度大きな深呼吸をした。雄太が見守る中、その言葉を吐く。
「気がついたら電話してた。昔兄貴と満君に置いて行かれたことを思い出して、もし二人が互いの気持ちに気づいたら、また、私が置いて行かれるんじゃないかって思った。そしたら、いろいろなことがぐっちゃになって、気づいたら電話してた。本当に…………ごめんなさい」
深々と頭を下げたカナを責めることはできなかった。雄太はあの日、なぜ「離しちゃダメ」と聞こえたのかようやく理解できた。マリアが自分の感情を吐露したら、カナは自分が一人になると思ったのだろうか。もう、雄太がカナのことを忘れてしまうと思ったのだろうか。
雄太は思う。自分は何がしたいのだろうと。雄太の世界はカナを中心に回っていた。雄太はカナを守るために今まで生きていたようなもので、それが生きる意味だと思っていた。カナのために兄や父や母を演じた。成長に伴い母が演じられなくなってから、カナのためにメイドロイドを買った。カナのために、カナのために。
いつから、それがカナのためじゃなくなった?
気づけばカナのためとかどうとかじゃなくて、惹かれるままにマリアを買っていた。惹かれるままにマリアを置いていた。それは、誰のため?
「兄貴……さっきね、高西さんから連絡があったの。私は密告者だから、特別にマリアさんがスクラップされる日を教えてくれた。マリアさん……今日の夜、ゴミ箱、行っちゃうって」
震える声でつぶやかれた言葉は右から入って左へ抜ける。大事な所だけ脳の網に引っ掛かり、雄太は呆然としながら繰り返した。
「今日の……夜…?」
「そう、今日の夜。ねえ、私が言ったら怒るかな。マリアさん…マリアさんを、助けて。ねえ、おにいちゃん…ごめんなさい、助けてあげて……」
ああ、まただ、雄太は思う。カナの言葉はいつだって心に響く。悲痛な叫び。心からの叫び。カナの心が泣いているのがわかった。誰に泣かされたんだい? カナ、おにいちゃんがわるものをこらしめてきてあげる。
決心なんてとうの昔についていた。時期がわからなかったから行動に移せなかっただけ、思って、そんなの言い訳に過ぎないことも知っていた。カナがくれた。カナが、マリアを助けにいく勇気をくれた。雄太は小さく頷いた。
誰のための行動だとか、そんなものはもうどうでもよくなっていた。たぶん、己のためなのだろう。マリアがいなければ自分は何もできない。マリアがいたから幸せな気持ちになれた。マリアがいたから。だから、これはマリアのためではない。自分のための行動だ。
「大丈夫、お兄ちゃんが悪者を懲らしめてきてあげる」
そこは冷たい場所だった。冷たくて暗くて、じめじめとした場所だった。ゆっくりと体を動かそうとして、動かないことに動揺する。どうしてだろう、意識はあるのに、なんで体が動かないんだろう。
「無駄だよ、マリア」
ふと声が聞こえて目だけを動かす。どうやら動くのは瞳の映像認識部分だけ。自我があるロボットって、やっぱり何だか不便だな、と、小さく思う。
「君はこれからスクラップだ。ようやく君の体の解析も終わったしね。過去の汚点は早々に取り除きたいんだよ」
目の前に立っているのは誰だろう? 暗がりでよく見えない。大きな泡が一つ通り過ぎて行ったから、自分は今、解体後にシステムを安定させる安定装置の中に入っているのだろうか? そう言えば、よく見渡せば自分の腕とか足首とか首とかから、いろいろな管が伸びている。ああ、そうか、やっぱり、ここはJADOだ。
さて、自分はどうしてここにいるのだろう? そもそも、今は何年何月何日だろう。今まで、何をしていたのだっけ。考えていると、目の前の人影が低い声で笑い声を上げた。声は低くなったけれど、この音程は、女の人?
「おもしろいね、君は。本当に自我を持っているのか。いいかい、マリア。今の君の思考は、すべて君の頭上にあるコンピューターによって解析され、画面上に表示される。文字情報としてだ。つまり、君の思考は私に筒抜けということだよ」
女の人が酷く楽しそうに笑っている。何がそんなに楽しいのだろう? あれ? 楽しいとは、どういう感情だったっけ。思考が読まれている、そんなことはさして問題じゃない。私は誰? アンドロイドだということは認識できるけれど、それ以外の情報が皆無だ。 基礎知識以外の付加知識が全く感じられない。長い間、いろいろな人とかかわってきた気がするのだけれど、わからない。私は誰?
「君はマリアだよ、マリア。未知なる物質マリアから誕生した、世界で最初のアンドロイド、MARIA―N1G2119モデル、オリジナルだ。製品番号まで必要かい?」
そこまではいらない。私がアンドロイドだということはとうに知っている。そうだ、私はMARIAモデルのオリジナルだ。では、この女の人は私の製作者?
思うと彼女はにやりと笑った。口元だけ、安定装置の光に照らされようやく認識できる。
「そうだよ、マリア。私は君の製作者であり、君のモデルだ。……つまり、本当のオリジナルだよ」
女の人はひどく愉快そうだ。オリジナル? 私のオリジナル、人間? では私も偽物? あまたのマリアの中で、私だけが自我を持ち、私だけは本物だと思っていた。けれど、私も偽物? アンドロイドのマリアは、偽物?
「そう、ただの偽物だ。だから、私は君が嫌いだ。憎くすらある」
女の人の声が音波認識機能を伝わり自我に浸透してくる。なんだろう、この、チクリとする胸の痛みは。これが、悲しみ?
なぜだろう、胸の痛みがどんどん広がってゆく。いろいろな所を刺激してゆく。私は何か大事なことを忘れているはずだ。思い出せない。私は、ここに来る前、どこで、なにを、していた?
「もう諦めな。君はこれから死ぬんだ。アンドロイドのスクラップはいわゆる人間の死と同じ。そのグロテスクさは人間の比じゃないけどね。さあ、もう眠りなさい。これ以上その無駄に高性能な自我を持っていても、胸の痛みが増すだけだと思うけどね」
やさしい声で言われると、体の中でかちりと機械音がしたのが聞こえた。これは、何の音だったっけ? 考えを進める前に、どんどん瞼が閉じてゆく。ああ、そうだ、思い出した。この音は、絶対命令を聞いた時に、命令を実行するよう体を切り替えるスイッチの音だ。あれ? 絶対命令って、誰が出すのだっけ? そうだ、製作者及び国家だ。では、やっぱりこの女の人は製作者で間違いないのだろう。でも、まぶたが閉じてゆくのに意識が失われて行かないのはどうしてだろう? もうほとんど何も見えないし何も聞こえないのに、思考だけは止まらないのはなぜだろう?
ああ、そうか、私は、アンドロイドの体の中に潜む、人間の部分なんだ――
次に目が覚めたのは、ガタリという音とともに腕が金具に当たった時だった。感覚はないから痛みはないけれど、そこに物が当たったという伝達機能だけは付いている。瞼が閉じて感覚器を強制終了させられた後、電源すら切られたのだけれど、先の衝撃の時に勢いで付いたのだろう。前もそうだった。
……前? 前とは、いったいいつだっけ? そうだ、結構最近だった気がする。ここに来る前のことだけれど、それがいつごろだったか思い出せない。
電源が入ったことによって感覚器が復活して、ようやく瞼を開けた。暗闇から光を見れると期待して目を開けたが、広がったのはやはり暗闇だった。……闇の中を解析してみると、空間の広さ・壁の位置・壁素材等から見ても、どうやら木箱の中に入れられているようだった。首と、手首・足首に安定させるベルトが当てられているのに気付き、また動けないのかと落胆する。ベルトは木箱に埋め込まれているようで、衝撃があるたびに、ベルトの根っこがぎしぎしと音を鳴らす。
音波認識機能を最大レベルにまで上げて、外の様子をうかがう。誰かと誰かが話をしていた。
「ったく、めんどくせえな、こんな時間にスクラップ場なんて」
「そう言うなよ、なんでも機密事項に関わる機体らしいから、残業代に口止め料が上乗せされるって話だぜ」
「まじかよ、それじゃあしょうがねえなぁ」
障害物を四つほど抜けたところから男二人の会話が聞こえる。他に何かのモーター音。布の擦れる音。総合すると、どうやら運搬用トラックに乗っているらしい。私の入った木箱はさらにクッションのついた箱の中に入っていて、その箱は軟らかい材質の布か、あるいは特殊素材マット等によって包まれている。どうせスクラップするのにここまで厳重にして運ぶ意味がわからないが、どういうことなのだろう? 男二人は運転席と助手席に座っているようだ。ハンドルの音は聞こえなかったから、多分、自動運行の車。
「おっと、着いたぜ」
片方の男の声が聞こえて、バタバタと車を降りる音がする。すぐ近くで金具が降りて鉄板がきしむ音がして、トラックの荷台の扉が開いたことを知る。二人の男たちはもう何も話していなかった。ただ、どちらかが面倒くさそうに舌打ちをした。
ばたん、と、正面から音が聞こえたと思うと急に視界が晴れた。一瞬のことだったので、起動しているとばれないようにあわてて瞼を閉じる。光が差し込んだということは、私が入っていたのは木箱ではなくガラスケースだったようだ。どうやら私をクッションの箱の中から取り出して、スクラップ機械まで運ぶようだ。四つの手が頭と足元それぞれにつかまれているのを音で認識しながら、いよいよ死んでしまうのか、と、ぼんやりと思う。
何か大切なことを忘れている気がした。それが何だったか思い出せない。
誰か大切な人がいたような気がした。それが誰だったか思い出せない。
最後に見たのは私の製作者であり、本当のオリジナルである女性だけだ。彼女の顔も暗がりで見えず、記憶装置に残っている部分はほとんどが闇ばかり。作られてから長い間生きてきた気がするのだけれど、記憶に闇しか残っていないのが心もとない。
私は本当に生きていたのだろうか。
勢い余って家を飛び出してきたはいいが、マリアのスクラップ場がどこかも知らないことに雄太はようやく気がついた。とりあえず発進し損ねた車の中で、満に連絡を取る。数コールののち彼はすぐに電話に出た。雄太が事情を説明すると、満は小さくため息をついて、
「まあ、しょうがねえよな、なっちまったもんは」
そう言っただけだった。
満は昔からハッキングがうまい。ゲーム制作を手伝っている雄太もそこそこコンピュータが扱える方だが、満のそれはレベルが違う。二人がまだ幼かったころから満は、何か不都合があるたびにコンピュータをがたがたやって、その不都合は雄太の知らぬところで気付くと解決されていた。満がいつコンピュータを学んだかなんて、雄太は知らない。けれど彼が天才的にその分野に秀でていることは知っていた。だから、だめもとで聞いてみる。
「満……マリアのスクラップ場、わからないかな」
返ってきたのは一瞬の沈黙、そして、深い深いため息。聞き覚えのあるそのため息は、彼が「いやいやだけれど」了承してくれる時のそれだった。
「わかったよ、お前、時間なんなら迎えにこい。俺も行ってやるから」
そんで、それまでにはわかるよ、と、満はやさしい声色で言った。
彼はいつもそうだ、雄太はエンジンをかけながらぼんやりと思った。自分がこっそり問題解決に向かおうとすると、必ずどこからか現れて、もしくは今のように、「俺も行ってやるから」と傍にいてくれる。子供だから、若いからと相手になめられて、どうしようもなく、体を差し出す以外方法がなかった時も、彼は雄太に付き合ってずっとそばにいてくれた。
そして雄太は、満が自分に何を思っているのかを知っていた。
けれどそれは、満が言葉にしない限り言葉にしてはいけないことだった。気づかないふり、そうやって積み重ねられたものの上に、今回の事件もそっと置かれるのだろう。今までと同じように。
車を発進させて慣れ親しんだコースを進むと、十五分程度で満の住まうマンションに着く。彼はすでに正面玄関に降りてきていて、雄太の車を見つけるとすぐさま駆け寄ってきた。
「乗って」
雄太が発するが早いか、流れるような動きで助手席に座る。満の手には彼がハッキングをする時に用いるノートパソコンが収まっていた。
「わかったよ、JADO研究所本部にある、第零処理場。ナビする」
満が言いながら、とりあえずJADO本部に向かって、と指示を出す。言われたとおりに車を進めながら、雄太は声をひそめて聞いた。
「第零処理場って、何? 一般的に知れてるのって、第一からだよね」
待ってました、というように、満は隣でにやりと笑う。同じように声をひそめれば、二人だけの空間で内緒話をしているみたいだ、どこか子供時代に戻ったようで、雄太は何とも言えない気持ちになる。
「それがね、研究所で不正に取り扱われた機体の処理場なんだと。ほとんどが違法物だから、公には知られてないし研究所内にある。中には武器もあるらしい」
発せられた言葉に思わずブレーキを踏みそうになって、あわてて足をこらえる。気を取り直してハンドルを握りしめ、雄太は渋い顔をした。
「武器って、メイドロイドを戦闘用に用いるとかなんとかって、一時期騒いでたやつ?」
改正の難を逃れた憲法第九条のおかげで、日本国内で鉱物「マリア」を戦闘用に用いる研究は進められないでいた。しかし、「マリア」の魅力に取りつかれた研究者たちの一部が、これは戦闘に用いてこそ真の力を発すると騒ぎだし、一時期メイドロイドの製作が中止されたことがあった。一般に報道された事態の結末としては、国家が新たに「マリア」使用条例とメイドロイド条例を制定して、いかなる場合でも戦闘用に用いるもしくはそれに準ずる研究を禁止することになったはずだ。
「そう、表じゃ使用条例とメイドロイド条例で研究禁止になったけど、「マリア」のできそこないを使って、ひそかに研究がすすめられてるらしい。国家はそれを知りつつ、容認してる。数年たてば条例改正も考えられるくらいにはな」
満は「政府なんて嘘だらけだ」と小さく吐いて、それから押し黙った。「マリア」が戦闘用に使用されるようになれば、どういう事態が引き起こるのか、雄太にはいまいち具体的に想像できない。しかし、それが良くないことだけははっきりと分かっていた。満の言うことはもっともだ、そう小声で言うと、それまで案内してくれていたナビゲーターが、ぴこぴこと目的地が近いことを示した。
「そういえば、研究所内にあるって言ったけど。研究所は一般人の立ち入りが禁止のはずだよな? どうやって入るつもりだ?」
指示の通りに右折して、視覚的にもJADO研究所の白い建物と柵が見え始めた。そわそわとしている雄太を見て満はくすりと笑っていった。
「ちゃんと “設定”は準備したぜ。IDパスは俺が掲示するから、とりあえず正面行ってくれ」
そして、彼の相棒である白いノートパソコンをこつんと叩いた。
満のおかげで正面はすんなりと突破できた。ここからは、車に備え付けられているナビゲーターではなく満のナビで進むことになる。
正面入口を超えて正面に見えたのは、研究所の白い建物だった。そこを右折すると、「マリア」が最初に運ばれてくるのだろう鉱石選別所、何やらよくわからないタンクなどを通過する。聞いた話によると、研究員たちは研究所の敷地内で生活しているようだが、彼らの宿舎は逆方面なのだと満は言った。
「そこを左折するとすぐだよ」
敷地内は思いのほか広かった。満の指示に合わせてゆっくり動いているせいもあるのだろうが、雄太にはスクラップ場へ着くまでが酷く遠く感じた。そんなことをぼやくと、満は「処理場は最奥にあるから」と苦笑した。
「ここだ」
そう言われてついたのは、黒い柵に囲まれたゴミの山だった。左に積まれたゴミと思ったそれは、よくよく見ればアンドロイドのものらしい腕やら足やら首やら、中には目玉がそのまま入っていたりして、血こそないもののそのグロテスクさに思わずうっとなる。右手にあるのが、どうやら処理場そのものらしい。
最大の難関と思われた処理場の黒い柵は開いていた。中に白い小型トラックが見える。一瞬いやな感じがして、アクセルを強く踏む。急にスピードを上げたから満が隣で小さく呻いたが、雄太にその声は聞こえなかった。トラックの隣に急停車して、満の制止も聞かず飛び出した。
トラックの中は無人だった。荷台の扉が開いていて、中に棺のような箱が入っている。箱の中は赤いクッションで囲まれていて、中に何かを入れられるようになっていた。横に置いてあったそれを見て、雄太はさっと血の気がなくなるのがわかった。
「手遅れだな」
背後で満が低い声で言った。どこからどう見ても、この中にマリアの入った箱が入れられ、ここに運ばれたのだろう。そんなことは雄太にも分かっていた。トラックがついてからどれくらいの時間が経ったかが問題だ、雄太は早口で言った。
「まだ、助けられる」
ケースから取り出されると、やや乱暴な手つきで何かの上に乗せられた。背中から伝わる感触から考えれば、おそらく処理機械につながるベルトコンベアだろう。男二人が「スイッチどこだっけ」と話しながら遠ざかる音が聞こえたので、そこでようやく、目を開けてみる。
見えたのは無機質な天井だった。灰色に近いその天井は、何かの管やコードが張り巡らされていて、冷たいイメージ。それは研究所で見たそれと似ていた。
がたん、と小さく音がして、体がゆっくりと動き始める。ああ、死ぬんだ、今なら起動状態なので逃げ出せるけど、逃げ出したところで一体何になるのだろう、と、思う。一番初めに廃棄されそうになったとき、私は今のように起動状態にあって、決死の覚悟で逃げ出した。どうやって逃げたのかも、どうして逃げたのかも今は思い出せない。アンドロイドにとって廃棄……スクラップされるということは確かに死そのものだが、アンドロイドは痛みもなければ心もない。やれと言われたことをやり、行けと言われたところに向かうだけ。それなのになぜ、私はそれがいやだったのだろう。いつものように淡々と命令を聞いていればよかったはずなのに、なぜ、“絶対命令を破ってまで”生きたいと思ったのだろう。
私は「特別」なのだと製作者の彼女は言っていた。彼女の顔を私はきちんと見た記憶がない。彼女は私の前にその身を晒すことをとても嫌っていたから。彼女はまた、私が「憎い」とも言っていた。なぜ憎いのか、私にはわからない。ただ、彼女の助手だった老博士が、私を酷く愛おしげに見つめていたのは知っていた。
私は愛という感情を知っている。それは、アンドロイドでは持ちえぬ感情だった。私も完成当初はそのような感情を知らず、インプットされた感情しか持っていなかったように思う。しかし試験運転の際、私のマスターとなった老博士が死んだ時、何か違う感情を知ったような気がする。
そうだ、私の初代マスターはあの老博士だった。試験運転の際、毎日毎日私に必ず「愛している」と囁いて、私が仕事をこなすと本当に喜んでくれた彼。けれど私は、彼のそんな態度が私に向けられたものではないことを知っていた。その時はまだ機械だらけの思考の中で、「マスターが愛しているのは自分ではない」と認識していたような気がする。
あの老博士は私のオリジナルが好きだった。愛していた。私を定期的に点検してくれる整備士の女性が、彼女の助手と共にそんなことを話していたのを聞いた。老博士は私のオリジナルを……麻里亜を愛していたけれど、麻里亜は老博士を憎んでいた。なぜ? 知ることを禁止されているはずの思考の中に、疑問が生まれる。なぜ、麻里亜は老博士を憎んでいたの?
それはすぐにわかった。主人の留守をいいことに、彼の書斎で見つけた日記。彼が若い時から書き続けていた日記の中に、彼がまだ幼かった麻里亜に一目ぼれをしたこと、彼女の両親に麻里亜を養子にしたいと申し出たこと、それが拒否されて、けれど気持ちに折り合いが付けられず、彼女を強引に親元から離したこと、彼女に自分の愛を押しつけたこと、娘を取り返しに来た両親を……彼女の目の前で殺したこと、彼女の才を見込んで自分の知識のすべてをたたき込んだこと、彼女が研究者となったこと、彼女と老博士の「秘密にしなければならない」歴史がすべて詳しく書かれていた。日記の中には、麻里亜の体内に電子チップが埋め込まれていることが書いてあった。彼女の体は、老博士の言うことを……命令を無視した場合、この電子チップによって死には至らないが激しい苦痛を生む程度の電流が流れるようになっていた。
しかし老博士も年老いて、自身の死が見えてきたころ、彼女が自分を愛していないことに気がついた。彼女はいつも老博士を憎しみのこもった瞳で見つめている。当然だ、老博士は麻里亜にとって、自身を束縛し、かつすべてを取り上げた人物なのだ。彼女に押しつけるだけさんざん愛を押しつけた老博士は、今度は彼女からの愛を欲した。しかしそれはどうすることもできない。いくら電子チップで電流を流しても、彼女の心は離れていくだけ。
だから、私が彼女の代わりになったんだ。
ずっと昔の記憶を徐々に思い出して言って、ようやくそのことに気がついた。私は彼女の身代わりだった。けれど私はアンドロイド。愛という感情を知りえない存在。インプットされた感情は本物ではないから。彼は私に彼女を見ていた。けれど、私は彼女にはなりえなかった。
だから、ああしたのだ、ぼんやりと思う。
彼の死に際にいたのは私だけだった。本当は彼女が、麻里亜が私の位置にいるはずだったのに、彼が最期に望んだのは私だった。あんなことを望んでいたのなら、麻里亜は喜んでやってきただろうに、彼はそれだけはしなかった。老博士は穏やかな顔をして、とても残酷だった。
ベルトコンベアはゆっくりとしたスピードで、確実に私を運んでいた。先ほど聞こえていた声はもうずっと遠くになってしまった。ため息が出そうになって、自分がアンドロイドだということを思い出す。
思い出した、そう、思い出したのだ。封印“させられていた”これまでの記憶が、初代マスターの記憶と共にすべて蘇ってきた。彼の死後生きなければと思い、研究所を逃げ出したこと、機械音だけはごまかせなかったから、自分のコピーが生まれるのを待って、彼女たちの中に混じって「普通」のふりをしていたこと、マスターになるものが、自分をアンドロイドとして扱うことに耐えられなくなって逃げ出したこと。
私はすべて矛盾している。
矛盾している私を受け入れてくれたのは、受け入れようとしてくれていたのは、あの……雄太さんと、カナさんだけ、だった。
ああ、雄太さん。かの老博士があれほど私に望んだ気持ちを、私は今、あなたに抱いています。雄太さん、雄太さん、雄太さん。愛しい、愛しいのに、もう、届かない。
私は生きる気力を失くしてしまった。わかれる寸前の、あなたのあの悲痛な声が、顔が、忘れられない。あなたに苦しみを与えるのならば、私はもう、生きていたくない。
ただ、最期に一度だけ、一度だけでいいからあなたを見たかった……
マリア、と、自分を呼ぶ声が聞こえた。きっと幻聴だ、聞き覚えのあって、のどから手が出るほど望んだ声色のその声に、私は静かな微笑みを返す。もし彼が本当に来ていたとしても、ここからでは見えたものではなかったと思うけれど。
ベルトコンベアが終点に着いた。がこん、と、鈍い音をたてて体が沈む。がたがたとなる回転音がうるさい。彼の顔を思いながら逝きたいから、静かに瞳を閉じた。
涙が一筋、こぼれた気がした。
処理場に侵入すると、ちょうど担当のものらしき男二人が処理機の操作をしているところだった。ベルトコンベアの上を見ると、裸のマリアが横たわっている。人間のようなのに人間じゃない、生の姿を見るとやはりアンドロイドなのだと思う。後ろで満が制止の声を発したが、雄太は止まることなく二人の男に飛びかかった。
「マリア!!」
驚いた男二人に取り押さえられそうになりながら、必死で機械を止めようと手を伸ばす。操作パネルの横から顔を出してマリアの様子をうかがうと、あんなに遠くにいるのに、なぜか彼女が笑ったように思えた。そんな悲しげな表情で笑わないで、涙が出てきて、雄太の視界はぐちゃぐちゃだった。
「離せ!! マリアが! マリア!!」
口から出るのは彼女の名前だけ。自分を取り押さえる男たちが何やらよくわからない言葉を発している。「どこから入った」「何をする」、そんなことはどうでもいいんだ、瞬間、自分でも信じられないほどの力で雄太は二人の男を振り払っていた。力の強さに自身で動揺する間もなく、あわてて機械を止める。マリアはすでに上半身が入っていた。
「雄太! こっちは任せろ!!」
すぐさま背後で満の声がした。一瞬背後をみると、満が男二人相手に奮闘している。雄太に、マリアに会いにいけと言っているらしい。
「……マリア!」
状況を理解するが早いか、礼を述べるのも忘れて走り出す。無駄に長いベルトコンベアの終点、処理機械の入り口から、回転を止めた歯車の間から、なんとかマリアを引っ張りだす。
「そんな……」
マリアの体は上半身と下半身がほとんど分断されかかっていて、それらは切られなかったコードでなんとか保たれていた。バチバチと怪しい火花を散らして、彼女が完全に修復不可能なことを知る。下半身はまだ、歯車に巻き込まれていなかったので無事だったが、上半身はほとんど原形をとどめていない。右腕は完全にもげ、左腕に至ってもひじから下がない。胸は歯車に押しつぶされて皮膚部分が取れ、内部の機械が激しく火花を散らしている。奇跡的に、顔だけは、なんとか元のままくっついていた。
「マリア……」
閉じられた瞳が、声に反応してパチリと開く。どうやら彼女は起動状態のまま処理機械に入ったようで、核の部分は弱いながらもまだ生きているようだ。
開くと思わなかった瞼が開いたことで、雄太は一瞬どきりとする。そこに存在していた瞳が、なぜか自分の知るものと違うように感じる。けれど、彼女が生きているかもしれない、まだ、自分を判別できるかもしれない、彼女の死が免れないことは理解しつつも、雄太はどこか希望の光が見えた気がした。
「マリアっ」
今度は力強く声をかける。呆然としたマリアの瞼は一度、ゆっくりと、ふるえながら閉じて再び開くも、声は帰ってこない。見ると、首の部分が一部、剥げて内部が損傷していた。
「無様だな」
ふと、背後から声が聞こえて、それが聞いたことのある声だったので、雄太はゆっくりと振り向いた。誰がそこに立っているかなど知っていた。そして多分、今一番会いたくなかった。
「……高西麻里亜」
彼女の名を呼ぶと、彼女は憎々しげに雄太を睨んだ。
「その名を呼ぶな」
呼ぶなと言われても、それがあんたの名前だろう、と、雄太は言おうとして止めた。彼女が名前に……自身の下の名前に、何か強いコンプレックスを抱いているらしいことは、以前彼女が雄太の家を訪れた時になんとなく感じ取っていたから。代わりに、ずっと疑問だったことを聞く。
「なぜ、マリアをそこまで嫌うんだ」
いくらアンドロイドで、好き嫌いなど関係なかったとしても、自分が作り上げた機械だ、愛着くらいあってもいいものを、なぜそこまで嫌っているのか。雄太はそれが不思議でならなかった。高西は淡々と述べた。まるで、はじめから話すつもりで来ていたかのように。
「それはマスターを殺した、犯罪者だ」
「マスターを殺した……?」
言われている意味がわからず、動揺して高西を見上げる。彼女はようやく不気味な笑顔を見せると、壊れたマリアの機体を凝視しながら続けた。
「そうだ、殺した。試験運転中に、初代マスターであった私の助手の、老博士を殺した。いや、殺せと命令されたからその通りにしたのだったかな? あいつはこともあろうに、それの目の前で大量の睡眠薬を含んだ後、苦しみながら包丁を差し出して、「殺してくれ」なんて言いやがった。私の目の前ではなく、それの目の前でだ! 今まで散々好きだ愛だの言っていたくせに、最期の最期で選んだのは私のコピーだ! では私はなんだ? 私は必要なかったのか?! 私はこの怒りをどこにぶつければいい!」
狂ったように笑いながら、高西は一息で言った。それは魂の叫びのようで、雄太は何も言えない。あの優しいマリアが、いくら命令とはいえ保護対象……守るべき相手であるマスターを殺したとは思えない。しかし、製作者である高西はマリアに残る記憶装置を確認することができる。それが真実であることは明白だった。
「……そいつの抱く感情は、初代マスターを殺したときに生まれたものだ。保護対象を殺さなければならないという、命令と規約の中で生じた矛盾に、彼女の中の核がオーバーヒートした。その結果だ。どうだ、おかしいだろ?」
くすくすと笑い続けて高西は言った。
「それでも、そんなできそこないの犯罪者をお前は愛せるのか?」
「そもそもお前は、愛がどんなものか知らないだろう」
「愛とは人を殺す。愛で人は殺せる」
「おまえに、その愛でマリアが殺せるのか?」
がつん、と、何か気持の悪い感情が雄太を襲った。違う、そんなの違う、思っていても口にできない。
マリアを掴む手に力がこもった。彼女を失いたくない、そう強く思った瞬間、小さな起動音が耳に飛び込んできた。
「……マリア?」
驚愕のあまり、震える声で名を呼ぶ。ウィーン、という小さな起動音はなおも鳴り響いたまま。
「マ、すタ、あ」
彼女の瞳はぐりんとこちらを見つめていた。壊れた口から洩れるのは何度も聞いた機械音声。顔をくしゃくしゃに歪ませて、今にも泣きそうな笑顔を浮かべながら雄太が必死に「マリア」と呼び掛けているのを、オリジナルである高西はつまらなさそうに見ていた。
「ナんノ、ご、ヨウデ、しょウ、カ・」
しかし発せられた言葉は雄太の知るマリアのものではなかった。マリアはゆるりとした笑みを無理やり作って雄太に向ける。その眼尻に、透明な液体が付着していることに雄太は気づかない。
「マリ、ア……?」
信じられない、信じたくない、そう言った様子で声を発した雄太に、もう一度、“雄太が愛した”笑顔ではない笑顔を向けて、ばつん、という激しい音とともに彼女はとうとう音を消した。その瞬間に大きな電流が流れたのか、支えていた両手に強い刺激を受けて、思わず雄太は手を離す。
がしゃん、と、物が壊れる音とともにマリアが崩れ去った。
「……違う、違うよ」
最期の彼女が雄太の知る彼女ではなかったことに、思いのほか冷静に対処している自分がいた。雄太は思う。所詮、その程度だったのか、と。そして思った瞬間に、その感情を全否定する。
「違う、違うんだ……」
「何が違うんだ?」
うつむいて壊れたマリアを見詰めたまま、ぽつぽつ繰り返す雄太に、高西は興味深げに問い返した。
「そんなのは愛じゃない……彼女は、」
悲しげな瞳でマリアをみる。その瞳に涙は浮かんでいなかった。
「彼女は、初代マスターを愛していたんだよ……高西さん、あなたが、そうだったように」
だって彼女はあなたの感情をコピーしただけなんだから、静かな声でつづけた雄太に、高西は顔をこわばらせた。違う、否定の言葉を上げようとして、上げられた雄太の表情に押し黙る。
「マリアは初代マスターを愛していた。彼にとどめを刺したことで、矛盾からくるオーバーヒートで愛を得たとあなたは言った。“自我”を得た経緯はそうなんだろう。でも、多分、“愛”という感情は彼女自身が生み出したものじゃない」
雄太の顔は笑っても泣いても怒ってもいなかった。ただ淡々と、すべてを諦め絶望した表情。今にもはかなく消えて行ってしまいそうな、彼が今何を考えているのか、高西は想像もつかなかった。
「彼女の持つ“愛”は、あなたと、初代マスターの間での“愛”をコピーしたものだ。二人の間で交わされていた歪んだ愛を、だって彼女は間近で見ていたんだから。あなたの代わりに一身に浴び続けていたんだから。だから、マリアは僕を愛しちゃいなかった」
そして、雄太は去っていった。処理場の入り口付近で、満に「すべてが終わった」と声かけるのを高西はぼんやり聞いていた。
それを伝えて、私にどうしろというのだ、高西は思う。自分はやはり、彼を愛していたのだろうかと。彼を殺したからではなく、彼を殺すことで彼への愛を表現せざるを得なかった、彼女に嫉妬していたのだろうかと。仇を取られた憎しみではなく。
「……とんだ、茶番劇だ……」
それで結局何が変わるというのだ、もうすっかり壊れてしまって動かないマリアを見て高西は呟いた。
「あいつは大バカ者だ」
それが老博士のことなのか、雄太のことなのか、それともマリアのことなのか。それは高西自身にもわからなかった。ただ、再び歯車の中に戻そうとマリアの体に手をかけた時、ふと、彼女の眼尻に光る雫を見つけて、今度ははっきりと呟いた。
「……あいつは、大バカ者だ」
そしてこれからも大バカ者なのだろうと思う。そうでないと生きていけないのだ。今やただのアンドロイドに戻ってしまったこの儚い“女性”が、老博士ではなく真正面から自分を愛してくれていたことなんて、きっと耐えられないのだ、今の彼には。
そんな彼が、雄太が、過去の自分のような気がして、高西は小さく舌打ちをした。
「それでも、彼女はお前を愛していたぞ。足立雄太」
- end -
2009/08/11
ようやく書き上げました苦笑
長いののでちょっと読みにくいかもしれませんが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございますっ
というわけで、アンドロイド(ガイノイド?)のマリアと足立雄太青年の苦しい恋愛劇だったわけですが。
後半詰め込みすぎた感が否めません……苦笑
正直もう少しゆっくり進めればよかったかなあ、と思いつつ、これ以上長くしたかったのでまとめちゃったんですが。
うーん、いまいち核心に触れられていないような気がする。
人それぞれの「愛」の形について考えていただけたら幸いですが、くれぐれも! 愛故に体を売ったり人を傷つけたりしちゃいけませんよ!
というわけでお久しぶりな雨雲でした。
Harasu Uun