母さんと喧嘩した。
原因はなんだったのかもう覚えていない。ただ、自分が全て正しいみたいに、私を見下す彼女の顔に苛立ちを覚え、気がついたら最終バスに乗り込んでいた。
すっかり日の落ちた夜の街は、煌めくネオンに包まれていた。
大きめの公園ではストリートライブを催していて、不協和音に近い雑音に眉を潜めた。
バスの中には、最終便と言うこともあってわずかしか人がいなかった。
騒がしい街中を通り過ぎ、川沿いの道を通り始める。
所持金を見て、適当な場所でバスを降りた。
来たことのないところ。ポケットに突っ込んだ携帯電話を握り締めて、今日は野宿してやると心に決めていた。
バス停は、「夢見大橋」と名づけられた橋の一番端にあった。大きい橋だが年季が入っていて、街と田舎を繋ぐ唯一の橋だ。街のほうを向くと、背中にあるのはあぜ道に囲まれた田園たちだけだった。
蛍が沢山飛んでいた。橋の端から下に下りて、川岸を歩く。
ひやりとした風がそれまでの怒りを和らげて行く。長時間のバス乗車で疲れたからだがようやく悲鳴を上げて、柔らかい草の上に座り込んだ。
空には街中では見られない、満面の星が広がっていた。天高く現れた雲によって隠された月は、ほのかな明かりを放ちながら姿を見せる。
急に眠気が襲った。疲れがどっとたまる。
草の上に寝転んで、ゆっくりと眼を閉じた。瞼の裏に写ったのは、笑った母さんの顔。
瞬間的になんだかおかしくなって、小声で呟く。
「帰ってやんねーよ、ばぁか」
一人でくすくすと笑った。星も笑ってくれている気がして、そのまま眠気に身を任せようとする。
川魚が一匹、私が寝転ぶ川岸の本当にすぐそばで飛び跳ねた。
水しぶきが飛んで、突然冷たい風が通り抜けた。
「なに、してるの」
ふと背後から声がかかった。
振り返ると、それまで誰もいなかった場所に、ランプを手にした麦わら帽子の少年がいた。
少年はゆらりと亡霊のような動きで私の隣までやってくると、青チェックのシャツの裾を少し引っ張って、断りもなしに座り込んだ。
「なに、してるの」
同じことを二度言った彼の顔は、暗がりで良く見えない。
低い声があたりに響いた。吸い込まれそうなハスキーボイスに、思わずくらくらと眩暈を覚えた。
「別に」
答えてやる義務はない。こんな、こんな変なやつ。
初めて会う人間に唐突に、昔から知っていたように話しかけるのはここが田舎だからだろうか。
私はそっぽを向いた。
「魚が飛んでるよ」
少年は私の態度など気にした様子も見せず、川でぴちゃぴちゃと飛び跳ねる魚達をぼんやりと眺めている。
私は彼の声に応えない。
「ほら、水面に月が映った」
彼はそれでもなお、私の態度を気にすることはない。次第に私は、彼は私ではない誰かに声をかけているのではないかと感じ始める。
段々怪しくなってきて、不安が募って、私は思い切り立ち上がった。
「どうしたの?」
彼は今度は私の顔をきちんと見上げて問いかける。
やはり暗がりで、彼の顔は見えない。
どこへ行くアテもない。知り合いもいないし、そもそも田舎に来たのが初めてだ。
「べ、別に。関係ないでしょ!」
少し語調が荒い。彼はしかめることもせず、一度首をしかめて小さく頷いた。
「そう」
一言呟いて、彼も立ち上がった。
「魚が飛んでるよ」
ぼんやりと、うつろな声で彼は言った。
水面で飛び跳ねる魚に指を差して、見えない顔は確かに笑っていた。
「魚は……」
気がついたら声を発している自分がいた。
こんな変なやつ、まともに対応したって何の特にもなりはしない。帰り道が分かるわけでもないし、バスの量が増えるわけでもない。
けれど口は勝手に動き、言葉を紡いだ。
「魚は、飛ばない……」
言って、無性に悲しくなった。切ない。
さびしいきもち。
少年は満足そうに頷く。
「そうだね、魚は飛ばない」
言っていることが無茶苦茶だ。けれど、同意してくれたことがなんだか無性に嬉しくて、嬉しくて。
「でも、飛んでいるんだよ。ほら」
なんだか訳が分からなくなった。さっき飛ばないと同意したはずなのに、彼は私を水を魚を見つめ続けている。
――早く、早く、釣り人が来る前に
混乱する脳内に、柔らかな音が紛れ込む。
どこからか流れ出る声は、幾重にも重なったソプラノで美しい。
――早く、早く、早く、早く
――連れて行かれるよ
背筋が凍る。少年の顔がぼんやりとした明かりで明らかになった。
精悍な顔つき、茶色の髪。瞳はうつろだけれど、美しいと称するに値するものだった。
ど こ か で 見 た こ と の あ る 顔 。
唇は美しい弧を描く。綺麗なハスキーボイスが、空いた隙間から流れでる。
「早く、早く、連れて行かれるよ……“釣り人”に、連れて行かれてしまうよ」
少年の言っていることは意味が分からない。私の脳内は理解不能の自体ばかりでショートしかけている。
少年は変わらない笑顔のまま、私の瞳をじっと見た。
「釣り人が来る前に帰りなさい。魚が光を照らしてくれる」
吸い込まれそうなほど美しい瞳に、気がついたら走り出していた。
何がなんだか分からない。
一度だけ振り向いた。
「君の在るべき場所に」
微 笑 ん だ そ の 顔 は 見 知 ら ぬ 顔 。
振り返ってはいけないよ、と、付け足された気がした。
夢見大橋を夢中で駆ける。
深夜に通る車は数えるほど。車道に出て無我夢中に走り出した。
……橋の真ん中まで来たときに、ふと、自分の両側で何かが光り輝いているのに気がついた。
足が自然と立ち止まる。
橋の端に駆け寄って、下を眺めた。
「っ……」
無数の、無数の淡い光が。
川の中の水の中の土の中の……流れに乗って、乗って、私を優しく包み込む。
私は少年がいった言葉を思い出す。
魚 が 光 を 照 ら し て く れ る 。
その意味はわからない。言葉の真意は分からない。釣り人がなんなのかも、何故逃げなければならないのかも、何故彼が私に話しかけてきたのかも。
けれどその全てがどうでもよくなってしまった。
自然と流れ出た涙が止まらない。
「帰 り た い」
帰りたい。帰りたい。
帰りたいよ母さん。帰りたい。謝るから。帰りたい。帰りたい。帰りたい。
帰りたいから。帰るよ。今そっちに。帰る。帰りたいよ。帰りたい。
帰りたい。私のあるべき場所に。
車のクラクションが聞こえた。
ヘッドライトがまぶしい。何事かと一度そちらに目を向ける。
見覚えのあるワゴン車が、私の目の前で止まった。
車内がばたばたと慌てているのが分かる。
運転席の扉が勢いよく開いた。
「ユメ!!」
私の名前を叫びながら車から転げるように飛び出したのは、見覚えのある顔。
涙でなんだか視界がぼやけている。けれど駆け寄って私を抱きしめてくれたのは、間違いなく母さんだった。
光は気がついたら消えていた。けれど流れる涙は止まらない。
「ごめん、ごめんね、ユメ……」
母さんは私を抱きしめて、頭を撫でながら謝ってくれた。心なし声が震えている。もしかしなくても、母さんも泣いているのだろうか?
「私のほうこそ……ごめん……」
動揺していたはずなのに、気が動転していたはずなのに、母さんに抱きしめられたら全てが止まった。
先ほどまで感じていた不安やあせりや恐怖も、全部、全部。
「帰りましょ、ユメ」
母さんが私の顔を覗いて涙を指でふき取った。小さく頷いた。
帰ろう。
……
…………
………………君たちの在るべき場所に。
帰りの車で、どうして私の場所が分かったのか聞いてみた。
母さんは助手席に私を乗せて、微笑みながら運転している。もう怒っている様子はなかった。
母さんは微笑を絶やさずに、小声で呟くように答えを出す。
「魚がね、教えてくれたの」
「魚?」
聞こえた言葉に疑いを持って、というよりも意味が分からなくて、思わず聞き返す。
母さんは何事もなかったように小さく頷いて、今度は恥ずかしそうに笑った。
「どうしてユメと喧嘩したんだろうって考えて、それでもきっと帰ってくるって待っていたときにね、光が見えたのよ」
魚 が 飛 ん で い た の 。
母さんはゆっくりと言葉を紡ぎだす。少年と同じように。
「青白い光の中に、確かに魚がいたの。宙を飛びながら。けれどそのとき母さんね、魚が飛んでいることを認識していても、特に驚きはしなかったのよ。……代わりに、夢見川の河川敷で、ユメが水中に引き込まれる白昼夢を見た。……怖かったのよ。だから、だから、急いであの橋に……」
最後のほうは震えて何を言っているのか上手く聞き取ることは出来なかった。
「ユメは、釣り人の話を知っているかしら?」
唐突に、母さんは私に問いかけた。
聞いたことのある単語に、私はでも首をかしげた。
「知らない」
母さんは少しだけ驚いた顔をして、けれど微笑み返す。
「まだ、話していなかったのね……実はね、母さん、夢見大橋の向こうの、田舎の生まれなのよ」
釣り人の話とそのことに何の関係があるのか知らないが、私はおとなしく聞いていた。
「田舎ではね、夢見川に夜中、一人で夢見川に近づいてはいけないの」
「え、なんで?」
田舎って言うと、夜遅くまで魚釣りや川遊びをしているイメージがある。河川敷で花火をしたり、虫捕りをしたり。
母さんは一度言葉を溜めて、少し表情を曇らせながら一言言った。
「連れて行かれてしまうからよ」
「……だれに?」
何となく、答えは予想できていた。さっきまであれほど聞かされていた言葉だ。図らずとも予想が出来た。
「釣り人に、よ」
予想通りの答えを、母さんは簡単につむぎ出した。
続ける。
「前に夢見川で大洪水が起きたの。母さんが生まれるずっと、ずっと前のことだけれど。洪水で沢山の魚が流された。村人も、多くの人間が死んだ。……それ以降、夢見川では毎晩、流された人々が釣りをしに川を通るの」
「え?」
言われていることが飲み込めなくて、私は思わず聞き返す。
母さんは私の問いかけに少し顔をしかめながら、赤信号で車を止めた。
「川に流された亡霊たちが、仲間を集めるために人間を川に誘い込むの」
そ れ が 釣 り 人
毎晩、田舎では大量の蛍が飛び交う。
蛍の光は人を惹きつける。やってきた人間は急に眠たくなって、河川敷で眠ってしまうのだそうだ。
人間がそこで眠ると、川は急に流れを変えて静かに、静かに、人間を川に引きずりこんでいく。
引きずりこまれた人間は、洪水で死んでいった人々と同じように、亡霊となって……
蛍 の 光 で 人 を 釣 る 。
母さんが話した釣り人の話はこうだった。
蛍が、美しい蛍の光が、人々を釣っているえさ。
その事実に少しからだが震えた。
「実はね……母さん、一度釣り人に連れて行かれてしまうところだったのよ」
母さんは車を深夜営業のファミレスに入れた後、ぼんやりとそんなことを言った。
店内に入ってひやりとした冷房を感じて、空いていた店内ではすぐに案内された。
メニューを広げて暖かいコーヒーを頼む。母さんが甘いものも食べて良いよといったので、バニラアイスの乗っかったホットケーキを頼んだ。
一息ついたところで、母さんはまた話し始めた。
「母さんも昔、自分のお母さんと大喧嘩をしてね。家出をしたの。そう、ユメみたいによ。でも行くところがなかった。気がついたら、夢見川の河川敷にいたの」
話している途中でコーヒーが先に運ばれてくる。
母さんはゆっくりとした動作で店員に礼を言って、ミルクを入れてコーヒーをすする。
「そのときは本当に怒っていたから、釣り人の話なんて忘れていてね。急に眠くなったから河川敷で横になった。うとうととしたときに、声が聞こえたのよ」
何となく身に覚えがあった。
「それって、麦藁帽子をかぶった、茶髪で……あ、青チェックのシャツ着てて、ランプ持った男の子?」
母さんは少し目を丸くして、微笑んでもう一度コーヒーをすすった。
「貴方はそういう男の子にあったのね」
微笑みながら言った母さんの顔は少し楽しげだ。
ホットケーキがやってきて、私は続きを促した。
「母さんは、別の男の子にあったわ。彼はランプを持っていて、私の隣に座って言うの。“連れて行かれるよ”って。魚がぼんやり光ながら宙に浮き始めて、母さん、気がついたら走ってた。走って走って、気がついたら村の入口まで来てた。そしたらね、お母さんが母さんを迎えに来てくれていて、後ろを振り向くと……」
川 か ら 無 数 の 光 が 溢 れ 出 て い た 。
家について布団に入ったとき、母さんの話を聞いてよかったと思った。
夜空の星たちに負けないくらい美しい光。あれは、魚達が私や昔の母さんを、無事に家に帰すために灯した光なんだ。
母さんは寝る前に、一言いたずらっぽく笑っていった。
「母さんはね、あの時声をかけて助けてくれた男の子と、こうして結婚できたのよ」
- end -
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というわけで大分遅れましたが第五弾でございます。笑
今回は「不思議な雰囲気」「麦藁帽子の少年」「都市伝説(もどき」をテーマに書いてみました。
なっているかどうかは別ですが(笑
釣りをする人ということで、こういうなんというか…ブラック的な要素は入れたいと思っていたので、なかなか満足のいく出来になったと思います。
相変わらず未推敲なのはご愛嬌(撲殺
ユメちゃんは将来、きっと茶髪で美しい瞳を持った方と結婚するんでしょう。
あ、あと親子のつながりって言うのも意識してみたりしなかったり(なんだそれ
楽しめてかけたのでそれだけで満足です(笑顔
Harasu Uun